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21:Fantasista
荷物を持ってロビーを出ると、最初に見たときよりバスの台数が半分に減っていることに気付いた。 そして残ったバスの近くで、ひときわ大きくて目立つ須釜の姿を見つける。 近くに立っている人物が圭介と平馬だとわかると、は3人のもとへ駆け寄った。

「よかった、まだ乗ってなかった」

がそう言うと、須釜がちょっと驚いた顔をしたが、すぐ笑顔に戻り「それはこっちのセリフですよ〜」と、 いつもの間延びした声で言った。どうやらこの3人ものことを探していたらしい。

「お別れするの寂しいですね。ケースケくん達とはたまに会えるからいいですけど」
「スガさんとはフットサル場で会えるかもね。会ったときはまた対決しよ」
「はい、会えるの楽しみにしてますね〜」

須釜は相変わらず笑顔で受け答える。

「俺達もそろそろバス乗ったほうが良いかもな」

辺りを見渡し、人が少なくなってきている状況を見て圭介が言った。 平馬も同じように辺りを見渡すと、圭介を見て頷く。

「ほんと、あっという間だったな」
「ね。ほんとに早かった」

これで最後だというのに、は続けて言う言葉が思い浮かばない。 それは圭介と平馬も同じで、3人とも顔を見合わせたまま黙りこんでしまった。 横で見ていた須釜は少し微笑んでその状況を見守っている。

「ま、とにかくあれだ、元気でな」
「何その挨拶」

平馬に指摘され、圭介は頭をかいて恥ずかしそうに笑う。 そして「だって、何言っていいかわかんねえじゃん」と言う圭介を見ても笑った。

「またマネージャーとかやんねえの?」
「もうやだよ、今回だけでこりごり。自分のことだけで精一杯なのに」
「そっか…」
「次に会う時は、お互いプロ選手、かな」
「は? え、プロって」

を見て唖然としている圭介、バスの入口から顔を出した東海選抜の監督から召集がかかる。 それに平馬が「いま行きます」と返事をして、圭介のひじを小突いた。

「やべ、もう行かねえと。じゃ、またな」
「うん、またね」

圭介は笑顔を見せてそう言うと、バスの方へ歩いて行く。 そして平馬も、を見てゆっくりと口を開いた。

「さっきの言葉、マジで言ってんだろ?」
「プロってこと? うん、マジだよ。嘘じゃない。まぁ、なれたらの話ではあるけど…がんばる」

まっすぐな目を見て、平馬は何も言わずにの頭をくしゃりと撫でると、 圭介の後を追ってバスの方へ歩いて行った。
はバスに乗り込もうとしている平馬を見ていたが、決心したように平馬を呼び止めた。 それに気付いた平馬が、上りかけたバスの階段を下りての方を振り返る。
一呼吸して、は少し頬を赤らめながら平馬の目を見た。

「やっぱりまだ…あの答え、言えないんだけど」

先延ばしにしていた告白の返事を、最終日の今日になってもは言うことができなかった。 今度いつ会うのかさえ分からない状態で、このまま返事をあやふやにしていて良いとは思えず、 でも思い切って言ってみたはいいものの、結局返事できないのなら言っても言わなくても同じか、とは少し後悔した。
そして、もし今イエスかノーかを求められたら、どっちを答えればいいのだろう、と混乱し始めてきていた。

「言えるまで待つ、って言ったろ」

平馬は静かに微笑んでそう言うとバスに乗り込む。今度はが唖然とした。
本当にそれでいいの? と聞いていたら、平馬はなんて答えたんだろう。
は東海選抜が乗ったバスを見届けていると、後ろにいた須釜が肩を叩き 「僕らもバスに乗ったほうが良いかもしれませんよ」と言った。 そして須釜はもう一度に挨拶をすると、関東選抜のバスに乗り込んだ。
も都選抜のバスに近づき、車体横のトランクに大きな荷物を入れる。 周りに都選抜のメンバーが見当たらないから、乗り込むのは自分で最後だろう。

「おーい、

背後からした声に振り返ってみると、日生が膨れっ面で立っていた。

「ひでーな、俺には挨拶なしで帰んの?」
「ご、ごめん…もう帰ったのかと思ってた」
「地元の奴が他の地域より先に帰るわけないじゃん。俺らは最後だよ」

膨れっ面は一転して笑顔に変わる。
話しているうちに、隣に停車していた関東選抜が乗ったバスが発車した。 残るバスは都選抜と東北選抜の2台だ。 辺りに自分達以外の人影はなく、ほとんどがバスに乗り込んでしまっている。

「あんまり長く喋れそうにないけど…」
「いいよ、挨拶だけするつもりだったから。元気でな」
「うん、日生も元気でね」
「俺、あの言葉…また会えるっていうの、信じてるから。忘れんなよ」
「忘れないよ。記憶力には自信あるんだから」

威張ってそう言うに日生は笑い声を上げる。
そして、最後に握手を交わすとは都選抜のバスに乗り込んだ。

バスの中は様々な声が飛び交い、特に後ろの方の鳴海や桜庭、上原達が座っている辺りが一番騒がしかった。 後ろの方へ行くのは自殺行為だ、とは思い、無難な前の方で空席を探す。
探し始めて間もなく、空席が見つかった。監督や松下が座っている後ろの席の通路側が空いていた。 窓際に座っているのは水野で、窓の外を見ている為、に気付いていない。

「ここ、いい?」

肩を叩きながらそう尋ねると、振り向いた水野は驚いて一瞬言葉を失くしたが、慌てて返事をし座るのを許可してくれた。

「窓際がいいなら譲るけど…」
「え、ほんと?」

実は窓際に座りたいと思っていたには嬉しい言葉だった。 言葉にはしていないがの顔には嬉しさがにじみ出ている。 水野はいったん通路に出てに席を譲ると通路側の席に座った。
二人が席に座ったと同時にドアが閉まり、バスはゆっくりと動き始める。 どんどん離れていく施設を見て、あぁ本当に東京に帰るんだ、とは今更ながら実感した。

「早かったね、合宿終わるの」

が窓の外を見ながら言うものだから、自分に向けて言ってるとはすぐに理解することができず、 「ああ、そうだな」という水野の返事はワンテンポ遅れた。

「時間が過ぎるのって早いな…1日24時間じゃ足りないくらい」
「早く感じるのはそれだけ充実してたってことじゃないのか? 24時間じゃ足りないのは同感だけど」
「充実か…。今までなんて、ムダな時間が多くて思い出しただけで嫌になるよ」

でも後悔先に立たずってね、と笑ってみせるに水野は戸惑いながら空笑いした。
スピードを上げて走り出すバスの中で、は相変わらず窓から流れていく景色を眺めている。 眺めていたものたちがあっという間に通り過ぎていくことに、 過去の時間もこれくらいのスピードで駆け抜けていったのではないかと思えた。


はこの14年間、サッカーをしている時間よりも、勉強をしている時間の方が明らかに長かった。
母親に、女だからという理由だけでサッカーすることを禁止され、言われるがまま机に向かっていた。 中学に入学してからは勉強三昧な日々が続き、 小学生の頃によく行っていた父親とのサッカー観戦は当然のように中止になってしまっていた。 学校の成績が良くても、自分にとっては無意味同然。そんなことで褒められても、ちっとも嬉しくない。 なぜ自分の好きなことをさせてもらえないのだろう。なぜ言われた通りに行動しなければならないのだろう。
現状に疑問を感じたは自暴自棄になり、勉強からもサッカーからも離れた生活を送り始めた。

それからしばらく経った、中学一年の秋。
気分転換に少し遠回りして下校していた道で、偶然にもフットサル場を発見した。 フェンス越しに覗いてみると、学校帰りなのだろうか、中学生くらいの人達がチームを組んで、年上を相手に試合をしていた。 皆、表情は豊かで、とても楽しそうにボールを追いかけている。
それを見ているだけで、の胸の奥が熱くなった。何故あの子達は良くて、私は駄目なんだろう。 たった一枚のフェンスなのに、にはこれがとても大きくて分厚い壁に見えて、向こう側が別世界のように見えた。

「サッカー好きなの?」

もう帰ろうと、いつの間にか掴んでいたフェンスから手を放したとき、横から声がした。 顔を上げて見てみると、そこには女の子が居た。見たことの無い顔と制服。同い年かな。 何で突然そんなこと聞くのだろう。
とりあえず頷いて返事をしてみると、彼女は笑顔を見せた。

「よかったら、一緒にやらない?」

持っていたボールを見せて、彼女が言った。
その瞬間、の身体に鳥肌が立った。鳥肌が立ったことに、自分自身も驚いてしまう。 けれど、すぐに理由が分かった。自分がこの言葉を待っていたのだと。 ずっと、一緒にサッカーをしてくれる人を求めていたんだ。

「私でいいの?」

嬉しさをあまり顔を出さないように聞いた。 自分が今どんな表情をしているのか分からないのが怖かった。 変な顔をしてて断られてしまったらどうしよう。やっぱり駄目って言われてしまったらどうしよう。不安で胸がいっぱいになる。
でも、彼女の返事はのその不安を一気に吹き飛ばした。

「もちろん。あ、でも都合が悪いなら無理には誘えないけど…」
「平気! 用事ないから! 暇だし!」

あまりに必死な回答に彼女は笑い、も照れくさそうに笑う。

「私、小島有希。中1。よろしくね」
。同い年だね。こちらこそよろしく」

にとって、こんなに楽しくて嬉しさや喜びを感じたのは久々のことだった。

それから、は週に何度か下校途中にフットサル場へ寄るようになった。 帰宅時間がいつもと多少ずれても、学校で補修を受けていたと言えば母親に疑われることはない。 唯一、味方の父親にだけ、フットサルをしていることや、サッカー好きな女の子の友達が出来たことを話すと、 父親は自分のことのように喜んで応援してくれた。

同じ境遇に立たされている有希とは、すぐに打ち解けることができた。
2年に進級すると、有希は女子サッカー部を作り精力的に部活動に取り組んだ。 しかし、部を作ったことで放課後、と有希が一緒にフットサルをする回数が減ってしまった。
久しぶりにフットサル場へ足を運んできた有希は、先に来てストレッチしていたを見付けると気まずそうに声をかけた。

、ごめんね」
「へ? 何で謝んの?」
「私、最近あんまり顔出せてないから…部活の方ばっかりで」
「謝ることじゃないから、それ。有希が楽しくサッカーしてるなら問題ないよ」

は足を揃えて前屈しながらそう答えた。そして、体を起こして深呼吸すると、横に立ったままの有希を見上げて微笑みかける。

「でも、たまには来てよね。相棒が居ないと寂しくて泣きそうになるから」

そして今度は開脚して前屈をしようと体を倒すと、背中に重みを感じたと同時に激痛が走った。

「もー大好き!」
「ギャーッ! 痛い痛い痛い! 筋肉ちぎれる!」

有希が背中に抱きついて体重をかけるものだから、は新体操選手ばりに体を折られて悲鳴を上げた。 悲鳴で我に返った有希が慌てて離れると、はその場に横たわって足をさする。 の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「ほんとに涙出てきたんですけど」
「ご、ごめん、嬉しくてつい」
「つい、じゃないってばー。死ぬかと思った」

さっきよりも大げさに足をさするを見て有希は笑みをこぼした。 そして自分もストレッチをするための横へ腰を下ろした。

「今度は私が背中押してあげようか」
「ううん、遠慮する」
「ひど」

笑顔で断る有希にはむくれて自分のストレッチを続ける。 もちろん、本気で怒っているわけではないことを有希は知ってる。

が桜上水に来てくれたら最高なのに」
「ね。でもそれは無理だよ」
「うん…残念」
「私も有希みたいに堂々とサッカーしたい…嘘つき続けるのも良くないし」

いい加減、母親に自分の素直な気持ちを打ち明けたかった。 けれど、またサッカーを取り上げられてしまうようなことになってしまったら、どんなに辛いだろう。 それを考えると怖くて決心がつかず、打ち明けるのをどんどん先延ばしにしてしまっていた。 時間は止まってくれない。中学もあと1年で卒業してしまう。 自分が打ち明けていかないと、先へ進むこともできず、夢が遠のいていく。 このままじゃ駄目だ。後悔してからじゃ遅いのだから。



「おい、

肩を叩かれ、ぼんやりとした視界が目の前に広がる。 徐々にピントを合わせていくと、水野の顔がはっきりと見えた。 どこか困った顔をしている彼の表情を見て、は頭の整理が出来ず、状況を把握するのに時間がかかった。

「もしかして、寝てた?」
「あぁ、なかなか起きないから、どうしようかと思ってた」
「そっか…ごめん。私いつの間に寝てたんだろう」
「高速入った頃から寝てたんじゃないか? もうすぐ到着だって」

窓の外を見てみれば、高層ビルや電車など見覚えのある都会の景色が広がっていた。 バスの中は賑やかで、やはり後ろの方から騒がしい声が聞こえてくる。 こんな状況で眠ってしまうなんて疲れていたんだろうか…それになにか、懐かしい夢を見ていた気がする。 どんな夢だったのか思い出そうとしているうちに、バスは駅のターミナルに到着し停車した。

「バスの中に忘れ物しないようにね。それと荷物を受け取っても勝手に帰宅しないように!」
「はーい」

監督の言葉に選手達の間延びした返事をする。まるで小学校の遠足だ。
水野は後ろから人が来る前に、先に席を立ってバスを降りていった。
まだ頭がすっきりしないは欠伸をして体を大きく伸ばす。

「一馬、寝癖ついてんぞ」
「は? どこ」
「ほら、ここ」
「どこだよ」
「ぷっ、嘘だよ。一馬必死すぎ」
「なっ…結人! 騙したな!」

後ろから徐々に近づいてくる若菜の笑い声と真田の怒鳴り声。

「二人とも、後ろが詰まってるんだから早く進んでよね」

そして後から聞こえた郭の溜息混じりの声。 この3人は年をとってもずっとこんなやり取りをしてそうだ、とは想像して心の中で笑った。

「あ、ちゃんココに座ってたんだ」

進んで来た若菜がまた立ち止まって言った。後ろに居る真田はまだ髪を気にしているのか、手ぐしで髪を整えている。

「あ、寝癖ついてる」

今度はの髪を指差して若菜が言った。 けれど、先ほどの会話を聞いていたは慌てることなく余裕の態度を見せる。

「どっかのおバカさんと違うんだから、騙されたりしないからね」
「なーんだ、残念」

若菜はがっかりした表情を見せて肩をおとす。 後ろにいた真田は、さっきの言葉が引っかかりムッとした表情でを見た。

「…バカって誰のことだよ」
「心当たりがあるんじゃない? 一馬くん」

眉間に皺を寄せる真田にはふふんと笑って挑発する。

、ほんとにハネてるよ」
「へ?」

今度は真田の後ろに居た郭が、の髪を指差して落ち着いた声でそう言った。 思いもよらなかった言葉には間抜けな顔をして自分の髪に手をやる。

「どこどこどこ」
「ここ」
「ひっ、マジでハネてる…」

本当にあった寝癖には取り出した鏡を見ながらショックを受けていた。

「そんなショック受けなくても、水つければすぐ直るでしょ」
「そうだよ、そんな気にすることないって!」

想像以上にショックを受けて放心状態のに、郭と若菜がフォローする。
しかし、それとは逆にそんな様子のを見て真田は鼻で笑った。

「ハッ、バカはどっちだよ。かっぺ丸出し」
「…んだと、もういっぺん言ってみろー! かっぺって何だ、かっぺって!」
「まぁまぁ、落ち着いて!」

勝ち誇った表情の真田に掴みかかる勢いのを若菜が必死で抑える。

「ま、騙された一馬も人のこと言えないと思うけどね」

先に降りるよ、と郭が真田と若菜をするりと追い越してバスを降りて行った。
去り際に言い残された言葉に真田の表情は固まり、若菜がそれを見てまた笑い声をあげる。

「ほんと、英士の言う事は正しいよな。さ、俺も降りよーっと」

を抑えていた手を離して若菜も郭の後を追ってバスを降りて行った。
残された二人は無言で顔を見合わせ睨み合うと、ふんっと今度は互いに顔を逸らした。 そして真田は足早にバスを降りていった。
真田が降りた後、はもう一度、鏡で髪を確認した。後でトイレにでも行って直さないと。 はぁ、と小さく溜息をついてもバス降りた。

「荷物を受け取った人はマルコのところに集合してね」

西園寺監督はみんなに声をかけると、運転手のところへ行って挨拶をしていた。 最後に降りたは、トランクの横にひとつ残されていた自分の荷物を持つと、みんなの集合している場所へ歩き出す。
そこへ後ろから、挨拶を終えた西園寺監督が歩いてきた。

ちゃん、寝癖ついてるわよ」
「知ってます。恥ずかしいから言わないでください」

暗く沈んだ表情のを見て西園寺監督はクスッと笑みをこぼした。そして、「直してあげるわ」と立ち止まり、自分の鞄からスタイリング剤を取り出した。 それを自分の手のひらに伸ばしての髪につける。 自分が幼い子のように扱われては少し恥ずかしかったが、監督の優しい手つきに安心感を覚えた。

「監督、お姉ちゃんみたい」
「ふふ、お母さんじゃなくて安心したわ。はい、終わり」
「わ、ほんとに直ってる! ありがとうございました」

再度、鏡で見直してハネてないのを確認するとの表情に明るさが戻ってきた。 それを見て監督も微笑み返す。そしてまた集合場所へと歩き始めた。

「さっき、榊さんから連絡があったわ」
「榊さんから?」
ちゃんのお父さんが駅まで迎えにくるそうだから、伝えておいてくれって」
「え、わざわざ来なくてもいいのに」
「早くちゃんに会いたいんじゃないかしら?」
「…そんな、べったり仲良しじゃないですよ」
「親にとって子供はいくつになっても可愛いものなのよ」

監督はの頭をぽんっと軽く叩くと、散らばっている選手達に整列するように声をかける。
も遅れをとらないように整列する選手達の中に合流した。

「みんな、お疲れ様。合宿はこれで終了となります」

監督の挨拶が始まる。は監督の方を向いているものの気持ちは上の空で、帰宅してからのことを考えていた。 望む通りに事が進むだろうか。容易く解決できることではないと自分でも分かっているから、心に不安がよぎる。

ちゃん」
「はいぃ!」

突然、監督に呼ばれ、思わず声が裏返った。周りから笑い声が聞こえ、の耳がかっと熱くなる。 話を聞いていなかったことを注意されるのかと思っていたら、監督は微笑みながら手招きをした。 状況は理解できていないが、呼ばれるがままには監督の隣に立つ。

「最後に挨拶を、ね」
「え!」

なんで、という質問はさせてくれず、監督はの背中をぽんっと叩いて前を見るように促す。 事前に連絡も無かったし、は挨拶なんて考えていなくて少し焦っていた。

「あ、えっと、いろいろお世話になりました」
「バカ、いつ俺達がお前の世話したんだよ。逆だっつの」

が軽く頭を下げて言った言葉は、椎名によって是正された。

「そうそう、椎名の言うとおり!」

その声に顔を上げてみると、へへっと笑う藤代と目があった。 藤代だけではなかった。選手達のほとんどが笑顔を見せている。 大して仕事をしていなかったはずなのに…、逆に迷惑をかけていたかもしれない。 それなのに皆が暖かく迎え入れてくれたことをは嬉しく思った。
ふと、若菜と目が合う。すると若菜は郭の肩を組んで笑顔でピースして見せた。 さすがに郭はピースしないものの、静かに微笑んでを見る。 視線を横にずらすと、今度は真田とばっちり目が合った。 先程のこともあったから、てっきり目を逸らされるかと思っていたら、 真田は郭と同じように少しだけ笑みを見せた。 表情が緩んだことには少し安心していると、真田の口がゆっくりと開いた。 若菜が真田の方を見ていないということは、声を発してはいないのだろう。 読唇術が得意なわけではないけれど、には真田が言った短い言葉が何なのか分かった。

「バーカ…!?」
「どうかした?」
「い、いえ…なんでもないです」

首を横に振って答えると、監督は微笑んでを見る。 よかったわね、と言うように。もちろん、監督は真田のことについて気付いてはいない。
平常心、平常心。顔が引きつってる気もするけれど落ち着け自分。 心の奥からふつふつと込み上げてくる怒りを必死で抑える。 椎名に言われたバカよりも、真田に言われたバカの方が癪なのはなぜだろう。

「今後の日程等は追って連絡します。質問のある人は? …居ないわね。それでは、解散」
「したっ!」

一礼すると、選手達が散り話し声が響き始める。 まっすぐ帰路に着く者も居れば、寄り道を計画する者も居る。
はコーチ達と話している監督に声をかけ、選手達と同じように一礼した。

「監督には、ほんとにお世話になりました」
「ふふ、いいのよ。どう? 合宿は楽しかったかしら?」
「はい。いろいろと勉強になりました。参加出来て良かったです」
「そう。それは良かったわ。…しばらく会えなくなると思うと残念ね」
「落ち着いたら連絡します。その時に良い知らせが出来たら良いんですが…」
「大丈夫よ。自信を持って」

監督はの頭を優しく撫でる。は嬉しさと照れくささが入れ混じった表情を浮かべ、 監督にもう一度礼をして別れを告げた。

ちゃん、良かったら一緒に帰んね?」

監督の下を離れると、どこからともなく若菜がやって来て言った。 すぐ後ろから郭も現れて、「結人のお母さんが迎えに来るんだ」と付け加えて言う。 その隣には真田が立っているが、最後に怒るのもどうかと思い先程の感情をぶつけることはしなかった。

「ごめん、うちも迎え来るから」
「あ、そうなんだ。残念。これでお別れなんて寂しーな」

若菜がグスンと泣き真似をして言うと、すぐに郭が「見っとも無い事するな」とツッコミを入れて止めさせた。

「涙出ないけど悲しいのはマジなんだって。おい、一馬泣くなよ」
「泣いてねえし! 何で泣くんだよ」
「だって悲しいじゃん」
「…別に」
「うわ」
「薄情者」

普段と変わらぬ表情の真田に若菜と郭から冷たい視線が刺さる。

「一馬、照れてるんだよ」
「そうそう、ああ見えてシャイだから」
「勝手なこと言ってんじゃねーよ!」

フォローするようにに向かって言う若菜と郭に真田の怒りが爆発した。 その様子を見ては笑いを堪え切れずに吹き出すと、それを皮切りとして三人も顔を見合わせて笑い始める。 楽しくて心地よくて、別れが名残惜しいと感じた。それでもここにいつまでも居るわけにはいかない。
ふと、背後から短いクラクションが鳴った。振り返ってみると、そこには見慣れた乗用車が一台停車していた。 運転席に座ってこちらを見ているのは、紛れもなく自分の父親だ。

「あ、迎え来たみたい」

がそう言うと、三人の顔から自然と笑顔が消えていく。 さっきまでの笑い声は嘘のように、急にしんみりとした空気が漂い始める。

「また会えるといいね」

郭が優しい口調で言う。少しだけ笑って見せるももの、寂しさが見え隠れしていた。はそれに頷いて答える。

「俺達のこと忘れないでね」

まぁ忘れちゃっていいやつも居るけど、と若菜が笑って言う。 もちろんそれは冗談だと思うが、誰のことを指しているのか分からないため真田は厳しい表情で若菜を見ていた。 すると、その視線に気付いた若菜「一馬だなんて一言も言ってねーだろ」と笑った。 笑っていることでまだ納得のいかない様子の真田だったが、の方を向きなおして、ふぅと小さく息を吐いた。 そして今度は落ち着いた様子で静かに口を開く。

「諦めんなよ」

まっすぐ目を見て言われた言葉に、はふっと笑って「そのつもりだけど」と答えた。 そして、真田もと同じように笑みを浮かべる。

「なに、なんの話?」
「さぁ」

状況がうまく呑み込めない若菜と郭は互いに顔を見合わせる。

「じゃぁ、行くね。バイバイ」

は三人に軽く手を振ると、車の方へ歩き出した。



「おかえり」
「わざわざ迎えに来なくったっていいのに」
「久しぶりに会うんだからいいだろう」

久しぶりって言っても、4日だけど。 は何故か嬉しそうな表情の父親にツッコミを入れることができなかった。 それでもやっぱり車で帰宅するのは楽だ。 は後部座席に乗り込むと、荷物を置いてほっと一息ついた。

「友達、出来たのか。良かったな」
「…今まで誰も友達居なかったみたいな言い方しないでよ」
「サッカーする友達は居なかっただろう…あ、有希ちゃんが居たか」

そう言われてみればそうだ、とは納得してから少し悲しくなった。

車がゆっくりと動き出して、駅を離れる。 先程まで居た場所に目をやってみれば、そこにはもう若菜達の姿はなかった。同じタイミングで迎えが来たのだろうか。 何故か少しだけ心細くなった。

「はい、これ」

赤信号で停車していると、父親が助手席に置いてあったバッグを差し出した。

「なにそれ」

受け取ってみると、それはずっしりしていて重みがあった。 中身は教科書、ノート、筆記用具、参考書、など、普段使っている勉強道具たちだった。

「あ、そっか。車に隠しておいたんだっけ」

は母親には友達の家で勉強合宿をすると伝えて家を出てきていた。 その友達とは有希のことで、有希のお母さんにも無理を言って協力してもらった。 今回だけだからと説得してくれた有希には本当に感謝してる。後でたくさんお礼をしよう。

「母さんにはまだバレてないけど」

バックミラー越しに「どうする?」と父親がを見る。

「…話すよ、全部」

もう覚悟は出来ていた。嘘は止めて、本当のことを話すんだ。

「そうか。わかった」

その言葉を待っていたかのように、父親は微笑み、それ以上何も言わなかった。

見慣れた風景を取り戻し、車はどんどん家へと近づいて行く。

大丈夫、怖くない。自分の信じた道を行くって決めたのだから。

2006.02.24 / Top | coming soon...→