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重たい月曜日が、今週もまたやってきた。
「今すぐそれをやめろ」 左隣から今の私より機嫌の悪そうな声がした。 その人の表情も私より悪い。前髪の間から見えるのは、眉間のしわ三本。 そこから視線を下げたところにあるたれ目は鋭く私を睨む。 睨まれるようなことしたっけ。それ、ってなんだろう。 もう考えることが面倒になって、私の気分はさらに悪くなり、自然と口からため息が漏れる。 そしてまた左隣の人が、私に向けてその長いひとさし指をさしながら声を張り上げた。 「だからそれをやめろっつってんだろ!」 私にはなんでこの人が不機嫌なのかわからない。だから、それ、ってなに。ため息のことだろうか。 机にうつ伏せになったままこの人を見てると、まだいらいらした様子で私を睨みつけていた。 この人はもともと目つきが悪かったっけ。それとも今だけ悪いんだろうか。 どっちにしろ、見られている私の気分が悪くなるのに変わりは無い。 「…はやく席替えしたい」 「そりゃこっちのセリフだっつの。お前もう呼吸すんな」 「なにゆえ」 「吸ってもいいけど吐くな」 「むずかしいよ。試しにやって見せて」 「断る」 自分から言っておいて…卑怯者め。私はかまわず呼吸をした。しなきゃ死んでしまう。 深呼吸をすれば気持ちが落ち着くとかいうけれど、してみても私の気持ちに変化は無かった。 もやがかかって雨の日の空みたいにどんよりしてる。 窓の外はすっきりと晴れているのに、このギャップはなんだろう。 晴れた空がすごくまぶしく見えて、その明るさから逃げるように私は顔を右に向けた。 今はどんなギャグを言われても笑えない気がする。 顔が濡れて力の出ない某ヒーローのように今の私はだめな状態だ。 そしてまた、口から漏れるため息。 バコッと音がして後頭部から軽い痛みが走る。 顔をまた左に戻すと、左隣の人が次の時間に使う歴史の教科書を丸めて持っていた。 歴史の教科書といえば形はノートより小さいものの、厚さが今年使う教科書の中で一番分厚い。 「痛いんですけど」 「吐くなっつったろ」 「吐いたんじゃなくて、息を"出した"の」 「同じことだってわかんねえのかよ。バカかお前」 「泣くよ」 「泣けよ」 なんて容赦無いことを言う人だ。しかもニヤニヤして見てるのがむかつく。 泣かない。絶対泣いてやんないんだから! もし私が泣いて、担任にどんな悪態を吐かれたか説明したら、この人は説教されるに決まってる。ふん、いい気味。 …ん?まてよ。この人のことだからなんとかうまくごまかしつつ自分が被害者かのように言い訳して、私に罪を擦り付けてくるかもしれない…恐ろしや…! 考えただけで鳥肌がたってくる。 私は机を横にずるずると引っ張って、左隣の人の机の距離を十五センチほど広げた。 「なにしてんだよ」 「恐い、私、とても、あなたが」 「ついに母国語まで喋れなくなったか。重症だな」 両手で耳をふさいでぎゅっと目をつぶる。なにも聞こえない、なにも見えない、自分だけの世界。 あぁもうはやく家に帰りたい。 そしてあったかい布団に包まれて眠って、草原で動物たちと遊んだりする愉快で幸せな夢をみたい。 そしたらこんな暗い嫌な気分も晴れるはずだ。左隣の人のことも忘れられるに決まってる。 だけどまだ一時間目。まだ学校は始まったばかりだ。 突然、私の身体に震動が伝わってきた。二回だけ、少しだけれど揺れていた。 地震かと思い目を開けてみると、目の前に座っている人は何も気付いていないらしく普通に座っていた。 斜め前の人たちも、右隣の人も。なんだ、勘違いか。 また目をつぶってしばらくすると、今度は三回、震動が伝わってきた。地震だ! でもやっぱり前の人たちは何も気付いていない。おかしい。 そう思ったとき、また揺れた。さっきより強いのに、なんでみんな気付かないの? 「おいコラ、シカトしてんじゃねえよ」 隣の人がまだ怒っていた。なんなのよ…!私が何かしたのならはっきりと教えてほしい。 よく見てみれば、長い右足が私の椅子の足のところまで伸びていて、それが私の椅子を蹴っていたのだとわかった。 「なんですか」 「いつまで耳ふさいでやがる。授業始まってんだろが」 「え、うそ」 私がきょろきょろと周りを見渡すと、左からチッという舌打ちが聞こえた。この人いつまで不機嫌なの。 教えてくれたのはとってもありがたいけど、素直にお礼が言えるような状況ではない。 目を合わせたらなにか言われそうだから、私は左を向かずに慌てて机の引き出しからペンケースを取り出した。 それから教科書とノートと下敷きを出そうと思って、重ねて入れた教科書たちを引っ張り出して探した。 下敷きは国語のノートに挟まっていたけれど、上から順番に一冊ずつずらしながら見ても教科書とノートが見当たらない。 もう一回また最初から見直した。あれ…無い。も、もう一回…、無い。もも、もう一回…、無い。なんで! よく見てみれば、今手元にある教科書やノートは金曜日の時間割どおりのものだった。 今日は月曜日。ということは鞄の中身を一切いじっていないということになる。 …う、うそでしょ!無いわけがない。ちゃんと朝、時間割見て確認…してないんだった、今日は。 今日は朝から気分が悪くていちいち鞄の中身を確認してるほど余裕がなかったんだっけ…。 どうしよう。もう先生が来て授業始まっちゃってるから借りに行くわけにもいかないし。あぁもう何で忘れてんの自分。最悪だ。 頭の中が混乱してる真っ只中に、先生が教卓の方からこっちへ歩いてきた。 机と机の間を通って徐々に近づいてくる先生は、私の机のところで立ち止まった。 この先生は忘れ物に対してすごく厳しい。 先週、教科書を忘れた子がいて、放課後に呼び出しをくらって一時間以上におよぶ説教をされたらしい。 たかが教科書一冊で。でも先生いわく、教科書無しでは授業にならん!べつに無くてもなんとかなるんじゃないかって私は思う。 あ〜怒られる。どうしよう。泣きたい。帰りたい。いっそ存在すべてを消したい。 「、机もう少し左に寄せてくれないと通れないんだが」 「は?あ…すみません」 説教されるのかと思いきや、先生は私の机を左に寄せると他のことは気にせず、 後ろの棚にあった大きい日本地図を持ってまた教卓の方へ戻って行った。 怒られなかったことにほっとして肩をなでおろした。でもどうしよう、ノートは何とかなるとしても教科書がないとは。 ふとに横に目をやると目の前に不機嫌な顔をした人が居た。 「近っ!」 「お前が近いんだよ」 相変わらず睨みをきかせているこの人の机と私の机の距離はわずか三センチほどになっていた。 先生どんだけ寄せてんだよ!そりゃ不機嫌にもなるわ!という私の怒りはそっと心の奥にしまいこんで、 近づきすぎた机をずるずる引っ張って離した。 とりあえずノートは国語のを使おう。 家に帰ったらちぎって写しかえれば良いし。 机の上に載ってるのはペンケースとノートと下敷き。 教科書がないのは一瞬見ただけでもわかってしまう。 先生にさされて朗読するように言われたらおしまいだ。みんなの前で恥をかく。 ただでさえ気分が暗くて重いのに、そんなことがあったら自ら命を絶ってしまうほど自分を追い詰めそうだ。 どうしようどうしよう。先生はいつも通りスムーズに授業を進めてる。 黒板には既に白い文字がいっぱい書かれてる。とりあえず書き写さないと。 書き写し終えて、先生にさされないかどきどきしていたら、机の上にパッと教科書が現れた。表紙には歴史の文字。 神様は私を見捨ててなかった!というファンタジーな考えをバッサリ切り裂くような現実がそこにはあった。 飛んできた方向が左。微妙に丸まった跡のある表紙。まさか。いや、そんなはずない。裏表紙の氏名は空白。 ほらほら、やっぱり神様だ。上から降ってきたんだ。 「汚したら承知しねえからな」 左から聞こえた声。左を見れば頬杖をついてこっちを見てる、いや、睨んでる人が一人。 これはもちろん現実世界での話。夢ならよかったと思った。 「あの、貸してくださいって言いましたっけ」 「ねえ奴は黙って借りてろ」 「え、あ、どうも…」 いい人なんだかやな人なんだか、さっぱりわからない。 でもまさか貸してくれるなんて思ってもいなかったから助かった。 「だけど一冊しかないのに、私に貸して良いの?」 「お前無くて平気なのかよ」 「平気じゃないけど…」 「だったらつべこべ言ってんじゃねえよ」 良い行いをしているのにイライラしちゃってなんだろうこの人。もう私に構うのは止めてノートにシャープペンを走らせてる。 黒板を見ると新たな文字が書かれていて、私も慌てて書き写した。 借りた教科書を開いてみると、中はきれいで新品のようだった。 私の教科書は赤ペンでアンダーラインをひいたり、くだらない落書きがあったりして、とてもきれいとは言えない。 意外と物をきれいに使う人なのかもしれない。私は少し見直した目で隣を見た。その視線はすぐ気付かれた。 「んだよ」 「いや、教科書きれいだなって思って。私のもうちょっと汚いもん」 「性格が出てんだよ」 またニヤニヤと人を見下したような笑みを見せる。 むかつくなんて言ったら教科書を没収されそうだったから言わなかった。 悔しいけれど、なにを言ってもこの人には勝てそうにない気がする。私なんて一ひねりでつぶされてしまいそうだ。 黒板の文字がまた増えたから、私はまたノートへ書き写した。 歴史の授業は他の授業に比べて書き写すことが多い。そしてテストへ出る範囲も広い。 なにかと厄介なこの教科が私はあまり好きではなかった。 ちょっと薄れていた嫌な気持ちが、文字を書いていくにつれて再び濃くなってきた。 自然とため息を吐きそうになって、慌てて吸い込んだ息を止めた。 吐いたらまた隣の人に叩かれる。 また睨まれてるかもしれないと思って、恐る恐る左を向くと横顔が見えた。 私の方など気にもせず、真面目な表情で先生の話を聞きながらノートにシャープペンを走らせていた。 てっきり授業は上の空で外でも見てるのかと思っていたから、その行動は意外だった。 …私もちょっとは真面目に授業受けよう。ゆっくりと息を吐いて前を向きなおし、先生の話に耳を傾けた。 「ありがとうございました」 借りた教科書を持ち主に返却した。 結局、何事もなく、いつも通り授業が終わったのだった。 終わるまで私は終止ひやひやしっぱなしだった。先生に指されることよりも、隣の人が教科書を持っていないことに気付かれなくて本当に良かったと思った。 もしバレていたら、二人一緒に説教を受けてたかもしれない。そんなの、考えただけでも血の気が引くほど恐ろしい。 「よりによって歴史で忘れ物なんてな。信じらんねえ」 「私だって信じらんないよ。心臓止まるくらい吃驚したんだから」 ほんとに何事もなくて良かったと、ほっとして深く息を吐いた。 たった45分の授業が地獄のようだった。 「重いんだよ、お前」 「…体重が、って言ったら泣くよ」 「泣けよ。って違えよ、雰囲気が重いっつてんの」 何回ため息吐いてんだ。イライラするから止めろ。吸った息は普通に吐け。 と、言いたい放題に言われてしまって私は返す言葉が無かった。 ただ言われるがままに普通に息を吸って吐いた。教室の空気はおいしくない。 土日で掃除が無かったからなのか、埃っぽくて咳が出そうになった。 「そっちだって、ずっと不機嫌そうな顔してるじゃない」 私がそう言うと、お前には関係ないと言わんばかりの表情をして黙って窓の方に目を向けた。つまり無視された。 もー、なんなの!私だってそんな不機嫌な顔見てたくない。 私は右を向いて、視界に入れないようにした。さっきまでいい人なんじゃないかって思ってた自分がばかみたい。 次の授業が始まるまで、廊下の方に視線を泳がせていたら、教室の後ろのドアのところに隣のクラスの渋沢くんが立っていた。 彼はどっかの誰かさんとは違って、表情が穏やかで優しい雰囲気が漂ってる。 隣の席がこの人だったらなあ、と思ったら気分はますます下がってしまった。 「三上」 渋沢くんが呼ぶと、左からガタッと椅子が後ろに下がる音がした。それから背後に上履きを引きずって歩くような足音がして、 右を向いていた私の視界に視線を合わせたくない人の後姿が入ってきた。 渋沢くんとは明らかにオーラが違う。渋沢くんは笑ってるけど、きっとあの人はまだ不機嫌な顔をしてるんだろう。 渋沢くんが顔を見るなり苦笑した。やっぱり顔はあのままか。 「そっか、今日は月曜だったな」 「ほっとけ」 「まあ、夕方ころには気分も晴れるだろ」 「どうだか。どっかの誰かさんのせいで全然晴れそうにないけどな」 「なっ…!」 私は思わず声を出して驚いてしまった。誰かさんってまさか。 不機嫌な人がニヤニヤ笑いながらこっちを見た。あぁ、やっぱり私のことか…。 なによ、私が気分悪くなったのはあんたのせいでもあるんだから…! って渋沢くんまでこっち見ないで! |
Blue Monday (06:三上くんと月曜病) / 2005.08.19 | 戻る |