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夏休みを目前にして担任が”夏休み中の生活について”というタイトルのプリントを配ったのをきっかけに、 休み時間のクラスメイトたちの話題は夏休みについてのことばかりだった。 俺は夏休みがあまり楽しみじゃなかった。サッカーがたくさん出来るのはいいけど、問題は片付けるのが大変な大量の宿題。 英士は「宿題なんて初日に終わらせればいいでしょ」と、簡単に言うけど、 「それが出来たら苦労しねーよなー」と溜め息混じりに言う結人の意見に同意する。


窓際の風通しのいい席に座っていても、窓から入ってくる生ぬるい風のせいで体温が上がる。 夏生まれだから暑さに強いとか、冬生まれだから寒さに強いとか、そんなのはデタラメだ。 親から聞いた話によると俺は30度を超える暑い日に生まれたらしいけど、 今まで生きてきてこのむっとする暑さに何度苛立ったことか。 教室の前の壁にかかっている温度計を見て、俺は大きく溜め息を吐いた。 なんだよ29度って。ほんとありえねー…

実際、あまり期待はしてなかったけど、やっぱり結果がこうだとなんだか裏切られた気分になる。 ひねった蛇口から出てきたのはぬるい水で、あと数時間もすればお湯になってしまいそうだ。 それでもやっぱり喉が渇いて気分が悪いから蛇口から出るぬるい水を一口飲んだ。 喉を通るぬるい水で喉は少し潤ったけど鉄の味がする水道水はこの上なくまずかった。

「おいしい?」

背後からした声に反射的に振り返ると、そこにはクラスメイトのが立っていた。 まだ緩んだままの蛇口から絶え間なく流れている水に目を向けてそんな質問をするのは、 も俺と同じように水を飲みにやって来たからなんだろう。

「まずい」

俺の返事に「やっぱりね」と言いたそうな顔をしたは、蛇口に手を触れることも無く来た道を戻った。 時間を置いても冷たくなることのない水に嫌気がさした俺は緩んだ蛇口を締めての後を追った。 全開になってる廊下の窓からまたぬるい風が入ってきて、前を歩くの髪をほんの少し揺らした。 ふわっとした優しい香りが、一瞬、この蒸し暑い空間を忘れさせる。 そのときが突然立ち止まって後ろを振り返って目があってしまったから、俺はどきっとして何故か身構えてしまった。

「な、なんだよ」
「夏休み、クラスのみんなでお祭行こうって話しをしてたんだけど、行く?」
「は…祭?」

その話を聞いて俺は肩の力が一気に抜けた。ちょっと今、なんか期待してた俺はバカだ。 結人や英士に今の俺を見られたら絶対に笑われんだろうな。ここが学校で良かった。 そんな俺を見ても笑うことなく「忙しいのにムリだよね」と言ってまた前を向いてしまった。 何で俺を誘ったのか疑問に思ったけど、が学級委員ということを思い出して納得した。

1学期の初め、学級委員の立候補が誰もいなくて担任が困った顔をしたとき、が手をあげたときのことを俺は今でもはっきり覚えてる。 クラスの奴らがに拍手をしていたけど、その拍手が俺には「めんどくさい仕事を引き受けてくれてありがとう」としか聞こえなかった。 にとってその拍手がどう聞こえたかは知らないけど、あれからずっと嫌な顔ひとつせず仕事をする姿を見て俺は好感を抱いた。

「ムリっていうか、苦手、そういうの」

仲良い奴がいるわけでもないし、と、言った後にもうちょっと別の断り方があったんじゃないかと思った。 どうせなら「練習あるから」と一言で済ませたほうが良かったのかもしれない。

「…そっか、わかった」

詳しい理由を聞くことも無く、はただ短くそう言って教室に入っていった。 の後姿を見ながら、俺は少し罪悪感を感じた。 傷つけてしまったんじゃないかって、頭の中はそのことでいっぱいだった。 何度見てもきれいなのコゲ茶の瞳が、すこしだけ曇って見えたから。



あの蒸し暑さの中、何事も無いようにごく普通に授業は進んで、やっと時刻は午後3時。 最初から最後まで学校に居るなんて久しぶりで、なんだか不思議な感じだった。 ふと、夏休み中の登校日に選抜の練習試合が重なってるということを担任に教えていなかったのを思い出して、 教科書の入ったカバンを机の上においたまま俺はすぐに職員室へと向かった。

担任との話が終わって職員室を出たのは入室してから約10分後だった。 職員室の天井についてる大きなクーラーから出てる冷たい風に熱くなってた身体の温度が下がったけど、 ドアを開けて一歩廊下へ出たらまた生き地獄に戻って、せっかく消えた汗がまた額にうっすらと出てきた。

足早に長い廊下を教室に向かって歩く。くそ、全然気温さがってねーじゃん。 廊下の窓から見上げた空は、まだ眩しく輝く太陽があって、だんだん日が落ちるのも遅くなってきてるんだと思った。 職員室を出てから1分ほどしかたってないのにさっきの涼しさは身体に少しも残ってなかった。

たどりついた教室の開いたままのドアの向こうに見えたのは、机に座ってなにかをしてるの姿だった。 教室にはの姿しか見えなくて、俺はちょっと教室に入るのが気まずくなった。 だけどもう今更どうしようもなくて、机の上に置いたカバンを取らなければ家に帰ることも出来ない。 教室の手前で立ち止まって、1度軽く深呼吸して…ってなんで俺はこんなに緊張してんだよ。

「あ、真田くん」

さぁ入ろう、という時に向こうに気づかれて、踏み出そうとした一歩が宙に浮いたままで止まった。 なんでこうタイミングが悪いんだ。俺は今頭の中で最初はなんて声をかけようか必死で考えてたのに。 そんなことを知らないは、「カバン置いて帰っちゃったのかと思った」と、普通に笑っていた。 やっぱり昼間のあれは、俺の勝手な想像だったんだろうか。

「…カバン置いて帰るほどバカじゃねーよ」
「あはは、そうだよね。職員室行ってたの?」
「あぁ」
「涼しかった?」
「ここと比べたら天国」
「わー、いいな!私も職員室いきたい」

笑いながら話すの顔を見ていて自然と自分の顔も緩んでいくのがわかった。 なんでもない会話を楽しいと感じたのはすごく久しぶりだった。 しかも場所は学校で、相手はクラスメイト。 でも相手がじゃなかったら、たぶん上手く話せずにいたと思う。 …ていっても、今、上手く喋れてるのかわかんねーけど。

「まだ残ってんのか?」
「え?あ、うん、やることあるから」

の机の上を見てみると開かれたノートと筆記用具が置いてあって、 そのノートの右側のページに”今学期の反省”とキレイな字で書かれていた。 まだそのタイトルしか書かれていないノートは白くて、光が反射して少し眩しかった。 こんな暑い教室の中で黙って椅子に座って作業するなんて、俺には絶対マネ出来ない。

「…ほんとに偉いよな」
「え、私が?」
「だっていっつも文句言わずに仕事してるだろ」
「あぁ…うん、でもね、私のお手本は真田くんなんだよ」
「は?なんで…」
「覚えてないかもしれないけど、小学6年生のとき真田くんと同じクラスだったんだよ」

そうだったっけ…、小学校同じだった奴の名前なんて誰も思い出せない。 家に帰ったら部屋のどこかにある卒業アルバムでも見てみよう。きっと同じページにも写ってるはずだ。 つーか、自分はどんな顔で写ってんのか思い出せなくて、今更だけど不安になってきた。

「それでね、周りの男子にいろいろ文句言われてたでしょう?真田くん」
「あ、あぁ、そんなこともあったな」
「私、いつケンカになるのかどきどきしてたんだけど、真田くん言い返したりしなくて、偉いっていうか…、 なんかすごく…かっこいいなって、思ったんだ、私」

はにかんで頬を赤らめながら笑うを見ていて、俺の顔まで赤くなっているように感じた。 じわじわ熱くなる顔は、今日1日の中で1番熱くなっているとおもう。 俺は最近のことを気になるようになったっていうのに、は小6のころから俺を意識してた、って。 しかもこうやって頬を赤くして話してるし…、正直、どう反応していいのかわからない。 「あぁ、そうなんだ」ってさらっと言えるわけでもないし、「ありがとう」なんて言えるわけもない。 お互い顔を赤くして、なぜか合わせた視線を外すことができなくて沈黙が続いた。 確かにここは暑くて額から流れる汗が頬をつたうのに、今自分が蒸し暑い教室の中にいることを忘れてしまう。 何か言わないと…と、心の中で思っても何も言えないし、まばたきをすることも忘れてしまいそうだった。

−カチャンッ

突然した音に2人同時に身体がビクッと動いて、音のしたほうに視線をやるとの机の下にシャーペンが落ちていた。 机から転がって落ちたシャーペンは先から少し出ていた芯が折れてしまっている。 落ちたシャーペンを慌ててが拾い上げてペンケースに入れた。 頬は赤いままで合わせていた視線はもう外れてしまっている。 もしシャーペンが机から落ちなかったら、が喋るまでずっとあのままだったとおもう。

「ご、ごめん…真田くん帰るのに、引き止めて…」
「いや、のせいじゃねーし」

沈黙がまた続く。
こんな調子が続くようじゃダメだ、と、咄嗟に口から出た言葉は、

「なぁ、」
「な、なに…?」
「俺、やっぱ行く、祭」

「なんだそれ」と結人に言われて、英士に溜め息をつかれそうだった。 でもはそのどちらでもなくて、その大きな瞳で俺を見つめたまま、まばたきをパチパチしながら、 「ほ、ほんと?」 と言って、表情は驚きと嬉しさが混ざったような感じに見えた。 自分の心臓がどきどきいってるけど聞こえないフリをして縦にゆっくり頷くと、 の表情から驚きが消えて嬉しそうに笑っていた。 俺も嬉しいけどその嬉しさと同時に、 祭に行く前に上手くと喋れるようにする、という課題が1つできた。 これは夏休みの宿題よりも大変な気がする。

Mellow / 2004.07.18 | 戻る