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少し錆びたフェンスに寄りかかりながら、空に向かってストローを通して軽く息を吐く。 先端から幾つもの透明な丸が飛び出して、それは風と共に背後のフェンスを越えて遠くへ飛んで行った。 透明なのに光が当たると七色に輝いて、丸の中に小さな虹ができる。 その丸を通して見える景色はキラキラ光って、別世界のように見えた。

飛んでいったはずのシャボン玉は音を立てずに割れて消える。 私は懲りずにまたストローに液をつけて息を吐く。 今度は大きいシャボン玉を作ろうとしてゆっくり息を吐いたけれど、丸が出来る前に割れてしまった。


突然、キィッと音を立てて屋上の古びたドアが開いた。 ドアは目の前にあったから、身体の向きを変えることなく誰が入ってきたのかすぐに見ることができた。 入ってきたのは翼先輩だった。赤茶色の緩やかなウェーブのかかった髪と、女の子に負けないくらい睫毛の長いパッチリとした目が特徴的だ。 背が低い、と、女の子みたい、というのが禁句だってことは校内中で噂になっている。 先輩は勉強も運動もできるしルックスも良いから、校内では一目置かれる存在だ。 だから先輩はとても近寄りがたい雰囲気がある。 先輩が一人で居るならまだしも、不良と言われていたサッカー部の人たちと一緒に居るのだから。

そんな先輩と私が仲良く…かどうかは分からないけど、会話するようになったのはつい最近のこと。 初めて先輩と会話をしたのもこの場所だった。ただ自己紹介をしただけの、短い会話。 同じクラスの黒川君があの時この場に居なければ、先輩と知り合うこともなかった。 だけど今日はここに黒川君は居ない。 私と先輩の二人きり。少し、きまずい。

「柾輝たちは?」
「ここには居ないですよ」

先輩は、ふーんと言って周囲を見渡した。それからフェンスの所まで来てグラウンドの様子を伺った。 今は昼休みだから、グラウンドで遊んでいる生徒たちがいっぱい居るけど、その中に先輩の探している人たちは居ない。 グラウンドを一通り見渡すと、先輩は私の横に腰を下ろした。 てっきり、確認したら屋上を出て行くものだと思っていたから、その行動に少し吃驚した。

「煙草、吸ってるのかと思った」

左隣からした声は紛れも無く私に向かって発せられているものだった。 確かに白いストローだけを口に銜えていたら、遠目には見分けがつかないかもしれない。 長さも半分に切って使っているから尚更だ。

「煙草吸うように見えますか?」
「人は見かけによらない、って言うだろ」
「…私は吸わないです、二十歳を過ぎても」

先輩はまた、ふーんと言った。まるで私に興味がないみたい。 話すのが面倒だとか思っているなら、隣に座ったりしないで黒川君たちを探しに行けばいいのに。 それともここで待ち合わせでもしているんだろうか。 それなら早く来てほしい。

またストローに液を付けて、空に向けて大きく吐く。 ため息の混ざった息を含んだシャボン玉は、空高く舞い上がって割れた。 私のため息も、広い大空の一部となり、跡形もなく消えてしまった。

「いつもココでソレやってんの?」
「調理実習のある時だけです」

先輩はまた同じ返事をした。気になるのか、気にならないのか、どっちなんだろう。

調理実習のある時は、決まって紙コップやストローを無断で持ち出して、屋上でしゃぼん玉を作って遊んでいる。 年に数回だけの、息抜きの時間。私は調理実習の時間が、どの授業より一番好きだ。 他の子たちは、調理実習で何かを作ったりするのを楽しみにしているけれど、 私は授業が終わった後のこの時間がとても楽しみだった。
シャボン玉は家でも公園でも出来ることだけど、学校の屋上が一番良い。 一番空が近くて、一番高い所へ飛んで行くから。

「今日、クッキー作ったろ」
「何で知って…あ、貰ったんですか、いっぱい」
「別にクッキーが好物なわけでもないのにさ、貰う身にもなれっての。だいたい作り過ぎなんだよ。無駄使いも良いとこだね」

先輩はまだ何か言い足りなさそうな感じだったけれど、それだけ言って黙り込んでしまった。 それから小さくため息を吐いて、フェンスに頭を預けた。 古くなって錆びたフェンスは、軋む音をたてながらも先輩の頭を受け止める。 呼吸と瞬きだけをして、じっと空を見上げる先輩の横顔には、いつもの昂然とした表情は見受けられなかった。 人気者も大変なんだ。

私はまたシャボン玉を空へ飛ばす。さっきよりもっともっと高いところへ飛んで行くように。 だけど小さないくつものシャボン玉は、横から吹いてきた風に流されて別の方向へ飛んで行ってしまった。 もう一度シャボン玉を作ろうとして息を吹いたら、ストローから飛び出したばかりのシャボン玉がさっきと同じように風で流されて 左隣の先輩の頬にぶつかってパチンと割れた。
先輩はシャボン玉の当たったところを手で拭きながら私を見た。この場合、睨んだ、の方が正しいかもしれない。

「わざとじゃないですよ、風のせいですよ」
「シャボン玉もまともに作れないわけ?」
「風が吹かなかったらちゃんと上に飛んで行きます」

風が止むのを見計らってまたシャボン玉を作ると、今度はちゃんと真っ直ぐ飛んでいって、 その後また吹き始めた風に乗り、踊るように上空を漂った。 先輩はシャボン玉が割れるまでその光景に目を細めていた。 今の先輩はシャボン玉で遊ぶような人には見えないけれど、小さい頃はよく遊んでいたんじゃないかと思う。

「先輩もやりますか?」

さっきのシャボン玉が割れても尚、空を見上げ続ける先輩に声をかけると、優しい表情が一転してしかめっ面になった。

「やるわけないだろ、そんな子供遊び」
「シャボン玉、好きなんですよね」
「いつ好きだって言った?」
「だって、シャボン玉が嫌いな人なんて居ないじゃないですか」

ポケットに入れていたもう一つのストローを差し出すと、先輩は無視してそっぽを向いてしまった。 こうなったら意地でも先輩にシャボン玉を吹かせてやろうと何故か私は燃えてきて、 先輩の右手にストローを無理矢理握らせるという実力行使に踏み切った。 そして先輩のストローに液をつけて、あとは吹くだけのところまでこぎつけた。

「思いっきり吹いていいですよ」
「なんでだよ、つーかやんないって言ったろ」
「じゃぁ、せーの!で一緒に」
「余計やだよ」
「いいから、はやくはやく」

先輩にストローを口元へ持っていかせて、私は自分のストローを口元へ持ってくる。 先輩はあまり乗り気じゃないけれど、たぶん吹いてくれると思う。 これで吹かなかったら、私が初めて出会うシャボン玉が嫌いな人になる。

「せーの!」

肺に取り込んだばかりの酸素をストローに吹き込む。 勢いよく吐いた息から出来たシャボン玉は、たくさんの細かい泡になって空へ舞った。 その細かい泡の後を追うように中くらいのシャボン玉が飛んでいる。 私が作ったものではない、そのシャボン玉。
吹いてくれたことが嬉しくて先輩の顔を見ると、私の笑顔がいけなかったのかデコピンを三発連続でされた。 痛くてオデコを押さえる私を見て先輩が笑う。

「やっぱり好きなんですね、シャボン玉」
「どっかのお子様の遊びに付き合ってやってるだけだよ」
「先輩だって、まだ15のガキじゃないですか」
「誰に向かって口利てるわけ?」
「先輩」
「…これ没収」
「あっ」

先輩は私の左手から液の入った紙コップを取り上げた。 取り替えそうとする私の手を軽々と払いのけて、ストローに液を付けて空へ息を吐き出す。 先輩の飛ばしたシャボン玉は悠々たる大空をどこまでも舞い上がって行った。

七色の球体 (03:翼さんと息抜き) / 2005.04.17 | 戻る