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私の視線の先にはいつも憧れの空間があって、
その空間の中にはいつも楽しそうに笑ってる若菜くんが居る。
若菜くんの周りにはいつも明るくて楽しい人たちが居て、
私はただその様子をクラスの端っこのほうで見ているだけだった。
私はいくら頑張っても、きっと若菜くんに近づくことはできない。 放課後、教室で今日中に提出しなければいけないプリントがあることを思い出した私は、 教室の窓際の端のほうにある自分の席についてもくもくとプリントとにらめっこをしていた。 わら半紙に印刷されたそのプリントに、シャープペンで急いで文字を書いていると、 シャープペンの芯が紙にひっかかってビリッという音と共にプリントの真ん中が破れて穴が開いた。 紙が破けたと同時にシャーペンの芯が折れて、そのせいで穴の横に黒い線がガタガタに書かれていた。 ペンケースから消しゴムを取り出して、その余計な線を消そうとしたとき、またビリッという音がして、 さっき開いた穴の大きさが広がってしまった。 あぁ、なんで世の中は思い通りに事が進まないんだろう。 少し嫌になって汚くなったプリントをゴミ箱に捨ててしまおうと思ったけれど、やっぱりできなくて、 破けた部分を紙の裏からセロハンテープでとめてまたシャープペンで文字を書いた。 私以外誰も居ない教室には、シャープペンが文字を書く音と、時計の秒針が動く音だけが聞こえる。 早く家に帰ったところで、とくにすることも無いけど、やっぱり一人で学校に残るのはあまり良い気はしない。 頭の中で違うことを考えていたら、また文字を間違えてしまって、今度はそっと消しゴムで文字を消した。 B4サイズのプリントを半分やり終えたところで、ふぅと溜め息をついたときに、 突然教室の前のドアがガラッと音をたてて開いた。 「あれ?じゃん。なにしてんの?」 ドアを開けた人を見て心臓が止まるかと思った。 相手が若菜くんじゃなければこんなにも驚くことはなかったとおもう。 いつもなら早退してしまったり、こんな時間まで残ってるはずの無い人が居るんだもの。 右手にシャープペンを握ったまま、時が止まったかのようにしてる私の居る方にどんどん若菜くんが近づいてくるのが見えた。 掃除当番の人がキレイに並べた机の間を迷路を通るように歩いてくる若菜くんは、気づけばすぐ目の前にいた。 「おーい、起きてる?」 少しかがんで私の顔を覗き込むように見ている若菜くんは、私の目の前で手をひらひらさせていた。 私は突然の出来事に声を出すのも困難で、あわてて首を大きく何度も縦に振った。 すると若菜くんはいつもの明るい笑顔になって、間近で見ることのない光景に私は少し顔が熱くなった気がした。 ドキドキというよりバクバクしてるこの自分の心臓の音だけが響いて聞こえる。 「なぁ、もしかしてそのプリント、もう終わっちゃった?」 「えっ、ううん、まだ半分しか、やってない…」 若菜くんと会話をするのは、たぶんこれが初めてだと思う。 緊張して瞬きの回数もいつもより多くなって、何度も目をぱちぱちさせても、目の前に若菜くんが居る。 若菜くんは私の前の席の椅子をひいて、逆向きに、つまり、私と向かい合うようにして座った。 なぜ今、こういう状況になったのか、誰か私がちゃんと理解できるように説明してください。 「え、あの、なんで…?」 「俺も今から、そのプリント片付けようと思って。一人じゃわかんねーから、よかったら教えて」 そうやって言われてしまったら、ダメだなんて言えない。 もちろん断ることなんて最初からできないんだけど、目の前に憧れの若菜くんが居るってことが、 私には嬉しいというより動揺と混乱で普通に会話なんて出来る余裕はないよ。 なのに若菜くんは、いったん席を立って自分の机から少しクシャクシャのプリントを取り出すとまたこっちに戻ってきた。 それから「ひとつの机で向かい合ってプリントをやるのは狭いよな」と、前の机を反対にして私の机とくっつけた。 さっきより私と若菜くんの距離は少し遠くなったけど、やっぱりまだドキドキは治まらない。 「ずっと一人でプリントやってたのか?」 「う、うん。私、先週休んでたから…みんなもう終わっちゃったみたいで」 「みんな早すぎだよな!でもが居てよかったー。俺ひとりじゃムリだし」 若菜くんの言葉のひとつひとつが、私の頭の中で響く。 私にとって若菜くんという人は、テレビの中に居る芸能人と同じような感じで、手を伸ばしても届かない存在だと思ってる。 いま、一秒一秒時間が過ぎて行く中で、若菜くんは実際に私の目の前に居るけれど、やっぱり遠い存在に感じてしまう。 もし残っていたのが私じゃなくても、きっと同じように接してるだろうし、むしろ私じゃなかった方が若菜くんにとっても良かったと思う。 もしこれが神様のくれたチャンスであっても、今の私にとってこれほどツライことはない。 私はただ、見ているだけでよかったのだから。 時間が経つにつれて、私の心にどんどん劣等感が生まれてくる。 何も知らない若菜くんは、プリントに目を向けて、オレンジ色の―女の子が使うような感じのシャープペンで文字を書いていた。 しばらく考えて、首をかしげながらも空欄を文字で埋めていく。それからピタっと動きが止まって、顔を上げて私のことを見た。 「ここの答えって、コレであってる?」 「あ、うん、あってるよ」 「マジ?俺ってスゲー!」 うん、ほんとうに若菜くんはすごいと思うよ。…なんて、口に出して言っていないけれど心からそう思う。 若菜くんは私の持っていないものをたくさん持っている。 たくさんの友達がいて、運動神経が良くて、おしゃれでセンスがいいし、勉強がダメでも他で補えるところとか。 ほんとうに、心の底から羨ましく思う。生まれ変われるのなら若菜くんになってみたい。 そんなことを思いながら、自分もプリントの空欄を埋める作業をつづけた。 途中でまた若菜くんに何度か質問されたけど、日本語を喋るのも一苦労だった。 私が必要最低限のことしか喋らなかったからか、若菜くんはプリント以外のことについては何も喋らなかった。 だから一緒に作業したほとんどの時間は沈黙で、なんだか少し若菜くんに悪い気もした。 時計の長針が180度進んだころ、やっとすべての空欄を埋めることができた。 「やっと終わったー」 若菜くんは椅子に座りながら両腕を上にあげて身体を伸ばしながらそう言った。 私もずっと緊張しっぱなしだったからか、プリントをやり終えた途端に大きな疲労感におそわれた。 ゆっくり深呼吸をしてシャープペンと消しゴムをペンケースにしまうと、先に若菜くんが席を立った。 若菜くんは反対に向けていた机を元通りに直してプリントを手に取とって、首が痛いのかぐるっと1回首をまわした。 「プリント、俺が先生んとこ持ってくよ」 「え、いいよ…!そんなの悪いし…」 「いいから遠慮すんなって!」 おきまりの笑顔でそう言われて、私の破けた汚いプリントは若菜くんに取られてしまった。 ほんとにいいから、と、私が言っても聞く耳をもってくれずに歩いて行ってしまう。 と、急に若菜くんがドアの前で立ち止まって、ズボンのポケットをごそごそとして何かを取り出した。 その何かを、とつぜん私の方に軽く投げて、飛んでくるものが何かわからなかったけれど私は両手でそれをキャッチした。 「ナイスキャッチ!それ、今日のお礼」 またニコっと笑って若菜くんは教室を出て職員室へと向かってしまった。 何がなんだかわからない私は、とりあえず今キャッチしたものが何なのか知る為、握った両手をゆっくりとひらいた。 私の手の中にあったのは、オレンジガム。1枚だけ、とかではなくて買ったばかりの未開封のものだった。 次の日、いつも通りに登校すると普段は遅刻ぎりぎりで来る若菜くんがもう来ていて、自分の席のところで友達と喋っていた。 いつもと変わらない若菜くんの様子に、私は昨日の出来事は夢だったんじゃないかと思った。 教室の後ろのドアから入った私は教室の端にある自分の席へと向かおうとしたとき、友達と喋ってたはずの若菜くんが、 「あ、おはよー」と他の友達と同じように私に向かって挨拶をした。 私はびっくりして若菜くんの方を向くと、若菜くんは近くに居た友達に話しかけられてまた楽しそうに笑っていた。 自分の席について、ブレザーの右ポケットに手をいれると、中には確かに昨日もらったオレンジガムが入ってる。 教室の真ん中に居る若菜くんの方を見ると、偶然若菜くんも後ろを向いて、ばっちり目が合ってしまった。 すると若菜くんはポケットから昨日私にくれたものと同じガムを出して私に見せた。 私もポケットからガムを出して若菜くんに見せると、若菜くんが笑った。 なんだか遠い場所に居ると思ってた人がすごく身近に感じて、すごく不思議に思える。 このオレンジの暖かで幸せな香りが、私を優しく勇気付けてくれているような気がした。 |
オレンジのひみつ / 2004.06.20 | 戻る |