Font size :
「あ、やばい」

しんとした教室の中の真ん中で、台詞とは裏腹に淡々とした声色でが呟いた。 軽く握った自分の両手を内側に向け、ただそれをじっと見つめている。

「やばいって、何が」
「爪」

視線を俺のほうに替えることなく返事をして、まだ手をじっと見ているから 首を伸ばしての手を覗き込んだ。
形の整ったその爪にはラメ入りのピンクのマニキュアが塗られていた。 派手すぎず地味すぎず、の肌色によく馴染んでいる。 生まれたときからこんな爪だったんじゃないかと思ってしまうほど、ごく自然でとても似合っていた。
蛍光灯の下でキラキラ光る爪を見つめながら「まぁいっか」と言ってはやっと顔を上げた。 やばいと自分で言っておいて、まったく危機感の感じられないの表情を見て一瞬ぽかんとしてしまったけれど、 よく考えてみればはこういう奴だったと思い、伸ばしていた首をひっこめた。

「いいのか、そのままで」
「リムーバー持ってるの?」
「持ってるわけねえじゃん」

俺が持っていないと分かりきっていて聞いたのか、は期待したり落胆したりする様子はいっさい見せず、 シャーペンを握り日誌を開いて当番の所に名前を書き込み始めた。

「怒られるかもな、爪」
「その時は謝るよ。…自分で名前書く?」
「書いといて」

怒られるかも、なんて俺も人のことを言ってる場合じゃないくせになに言ってんだろ。
俺達は今日の日直だった。 今日いつもより三十分も前に登校したのも、 "日直は早く登校して職員室に日誌を取りに来ること"というルールを守るためだった。 日直の仕事はめんどくさいし、こんなルールなんて正直守りたくも無いけれど、 一人に仕事を押し付けるのは気が引けた。 ちゃんとやってくれるのか心配だから、というわけじゃない。 むしろは与えられた仕事は期日を守って無駄なくきちんとこなす方で、 だからといってがっちがちの超真面目人間ってわけでもない。 なんていうか、大人だ、は。冷静沈着だし。俺の中では最近、がちょっと気になる存在になっていた。

「結人君」

初対面の時から、は俺のことを結人君と呼ぶ。 でも馴れ馴れしいとちっとも思わないのが、自分でも不思議だった。

「ん、なに」
「名前、漢字でどう書くんだっけ」
「結ぶ人」
「へえ。素敵な名前だね」

しゃりしゃりと芯が磨り減っていく音が聞こえる。
名前を褒められて、なんだかくすぐったい気持ちになった。 大袈裟に、いかにもお世辞って感じで褒められたら俺も言い返したりするけれど、 は少し微笑みながら褒めるから返す言葉が見つからない。 結人と名付けたのは親なんだから、名付けられた俺がお礼を言うのは変だし。
日誌を覗き込むと、の綺麗な字で若菜結人と書いてあった。 俺はいつも自分の名前を書くときカタカナで書くことが多いから、 漢字で書かれた自分の名前を見たのは久しぶりのような気がする。
は自分ひとりで時間割とかを日誌に書いてるから、俺はやることが無くて欠伸がでてきた。 机にうつ伏せになって、じっと黒板を眺める。 昨日最後に黒板消した奴の消し方が悪くて、ところどころに白い線がぽつぽつと残ってた。 右下には昨日の日直が書いた俺との名前があって、文字の大きさやチョークの色が違ってアンバランスだった。 黒板はきったねえし、名前がアンバランスなのも気になるから、俺はそれを直すことにした。

黒板消しを手に取って見てみたら、色とりどりのチョークの粉が一面びっしり付着していた。 おまけに、手にしたときに舞い上がったその粉を吸い込んでしまって咳が出る。 こんなもんで黒板消しても逆に汚くなるだけだ。誰か気きかして掃除しとけよなあ。
棚にあったクリーナーで黒板消しを綺麗にして、改めて汚い黒板の掃除を始める。 俺はなぜか意地になってて、新品同様に綺麗にしてやろうと、右上から順番に雑巾がけをするように消した。 黒板消しが通り過ぎたあとは、深緑色がはっきりと現れるから気分がいい。 いつも「ちゃんと掃除しなさい」って言われてる俺でも、やるときは徹底的に綺麗にするってことを皆に教えてやりたい。

「生まれ変わったね、黒板」

いつの間にか教卓の前にが立っていた。 いま掃除し終えたばかりの黒板を眺めて少し笑う。 それにつられて、俺の表情も自然と緩む。

「綺麗になったろ」
「うん。先生喜ぶよ」
「俺がやったって信じてくんねえよ、きっと」
「私が証人になる」

ちゃんとやってるところ見てたよ、とが言うから、俺はまたくすぐったい気持ちになった。 だめだ、になんか言われると素で照れる。 顔赤くなってたりしたらすっげえかっこ悪いな、俺。
話題を切り替える為に、箱から出したばかりの新品の白いチョークをに差し出した。

「名前書いてくれよ、当番のとこ」

は拒むことなくチョークを受け取り、黒板の右下に名前を書き始めた。
綺麗になった黒板に白い文字で俺の名前が次々と浮かび上がってくる。 そしてその横に次第に姿を見せていくの名前。 形の整った二つの名前はバランスよく並んでいた。
カチャンとチョークを桟に置き、指に付いた白い粉を払ってからも自分の書いた名前を改めて見た。

「曲がってない?」
「超まっすぐ。字、うまいし」
「結人君に褒められると照れるよ」

俺だってに褒められたら照れるっつの。口には出して言えないけどさ。 は照れるとか言っておいて顔を赤くする様子はなく、ちょっと嬉しそうに笑っただけだった。 なんだか俺だけ空回りしてるようでほんとかっこ悪い。





*





朝のSHRから帰りのSHRまで、誰かにリモコンで早送りされていたような感じがする。 今日は勉強する授業が少なかったからそう思えたのかもしれないけれど。 号令が終わり次々と教室を出て行くクラスメイトたちを見送って、静かになった教室で 黙々と日誌を書いているを見たとき、俺はやっと再生ボタンを押されたような感じになる。 姿勢よく椅子に座り日誌を書いているの横顔に、少しだけ見とれてしまった。 ずば抜けて可愛いとか、そんなんじゃない。普通なのに、目を引かれてしまう。なんでだ。
目が合ってしまうのを恐れて、日誌の方に視線を移した。 シャーペンをノックするの親指がきらりと光る。結局、マニキュアが先生に見つかることはなかった。 いつも検査で引っかかるような奴がしていたら、きっと気付かれていたかもしれないけれど、 ノーマークのが先生の厳しいチェックにあうことはない。 もし見つかっていたとしても、が謝れば先生もすんなり許してくれそうだけど、まあ見つからなくて良かったと思う。

「結人君、早く帰らなくてもいいの?」
「いーの。今日は用事ないから」
「そっか」

日誌を書き続けながらが言った。日誌って、そんなに書く項目あったっけ。 のことだから、余白があんまり残らないようにきっちり書いてんのかな… 俺だったら「とくになし」で早く終わらせて帰るけど。

教室は静かだ。周りを見渡して見れば席についてるのは俺達だけだった。 机の上に鞄を置いたまま、どっか行ったやつとかも居るけど、ほとんど帰っちまったんだろうなあ。 もうそろそろ日誌書くのも終わるだろうし、俺も帰る支度しよ。

「感想のところ、一行でも良いから書いてね」

荷物をまとめ終えたころ、が開いた日誌を俺の机に置いた。 俺がペンケースを鞄に入れてしまっていたのを見ていたのか、 また出さなくてもいいようにシャーペンをページの上に載せている。
よく思い出してみれば"日誌の感想は当番が一人ずつ書くこと"というルールがあったっけ。 面倒なルールばっかでしんどいぜ、まったく。ルールを破ったら明日も日直しなきゃなんねえし、ほんと厄介だ、日直ってやつは。
シャーペンを手に取り、一番下の感想の項目を見てみると、項目はまだ空欄だった。 感想が「とくになし」だったらさすがにヤバイよなあ。どうしよ、なんて書こ。
悩んだ末に「楽しかったです(ユウト)」と書いた。とりあえず、嘘は書いてないからオッケーだろ。
シャーペンと日誌を返すと、俺の感想を見たがちょっと笑った。 こう書くのを予想されていたようで悔しい。

「私も楽しかったよ」

はシャーペンを走らせながら、ぽつりと呟いた。 空白が徐々に文字で埋められていくけれど、何を書いているかは見えない。

「なんか、いいことあったの?」
「うん。今日は朝からちょっと幸せな気分」

朝か…、今日の朝って何かあったっけ。 朝の出来事を思い出してみたけど、俺には普段と同じようにしか思えなかった。 俺が見てないところで、にはいいことがあったんだろう。
の言ういいことが知りたくて尋ねようとしたときも同時に口を開いたから、被らないように俺は声をひっこめた。 は日誌しか見ていないから、俺が喋ろうとしたことに気付いていない。まあいいけどさ。

「いま思い出したんだけど、今朝テレビの占いでね」
「うん」
「ピンクのマニキュアで恋愛運アップ、って言ってた」

落とし忘れて正解だったかも、とは俺の目を見て小さくはにかむ。 そして、感想を書き終えた日誌を閉じると席を立った。

「なんだよ、それ…、どういう意味?」
「占いが当たったんだな、って意味だよ」

軽く動揺している俺に、は真面目な顔をして答えた。質問の答えとしては間違っちゃいないけど。
つーか、なに、この展開。予想外もいいとこだ。 目をはっきり見てあんなこと言われたら、都合のいい方へ勝手に想像しちゃうだろ。 朝から、って言うし、朝にと喋ってた男って俺以外に居なくね? え、マジでそういうこと?  否定するなら早いうちにしてくれよ。このままじゃほんとに調子乗るぞ、俺。

「結人君、日誌提出しに行こう」

気付けばが既に廊下に出て俺を待っていた。
の口からはっきりした言葉を聞きたいけれど、 今は"日誌は当番が揃って提出すること"というルールを守る為に職員室へ行かなければならない。 また教室に戻るころには、俺達の関係に何か変化が起きているに違いないだろう。 出来れば俺の想像する、いい方へと進んで行ってくれたらいいけど…あーくそ、当たるなら俺も占い見とけばよかった。

気紛れにやわらかい (07:結人と日直) / 2005.10.26 | 戻る