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『今夜から明日にかけて、東海地方では雷を伴った強い雨が降るでしょう。
明日も全般に曇りや雨のぐずついた天気になりそうです』 昨夜、寝る前にテレビで見た天気予報は外れてしまった。 確かに夜中は、雷がゴロゴロ音をたてて、雨もバケツを引っくり返したように降っていた。 だけど、朝起きてカーテンを開けてみれば青空が広がっていて、バターロールのような形の白い雲がぷかぷかと浮いていた。 開けた窓からは、濡れたアスファルトから風に乗って雨上がりの独特な湿っぽい匂いが漂ってくる。 暖かく照っている太陽のおかげで気温もちょうどいい。 お母さんが空を見て「すっかり秋の空になったわね」と呟いていたけれど、 私にはどういうものを秋の空というのかわからなかった。 それに、いつ夏が終わって、いつ秋が始まったのかもわからない。 季節はいつも、私が気付かぬうちに入れ替わってしまっている。 私は空を見上げてゆっくりと流れてく雲を眺めたりしてみたけど、晴れてよかったなあ、としか思わなかった。 ここ数日続いていた雨が嘘のように、空は時間が経つにつれて輝きを増していった。 澄んだ空気には音も声も気持ち良いくらいよく通る。 でも私や周りの応援の声は圭介の耳には届いていないように見えた。 真剣な顔でまっすぐボールを見つめて、追いかけて、時には無茶をして飛び込んで行ったり。 怪我をしないかひやひやしながら見てるこっちの気持ちなんておかまいなしだ。 だけど、仲間がゴールを決めたときとかに見せる、楽しそうで幸せそうな笑顔を見ると、私はすっかり心を奪われてしまう。 圭介だけしか見えてないこの目は、試合終了のホイッスルが響くまで覚めない。 試合の内容なんてまったく頭に入っていなかった。だから得点ボードを見て、やっと結果を知ることになる。 今日の試合は圭介のいるチームが勝っていた。 外に出ると、圭介のお母さんは他のお母さんたちと喋り始めてしまったから、 近くにあったベンチに座って終わるのを待つことにした。 私はたまにこうやって、圭介のお母さんと一緒に試合を観に来る。 圭介のお父さんも観に来ることもあるけど、今日は仕事があって来られなくなってしまった。 おばさんたちの方から、楽しそうな笑い声が聞こえる。 たぶんきっと圭介のことを褒めていて、うちの息子はまだまだ圭介くんにはかなわないわねえ、なんて言って盛り上がっているのだろう。 おばさんもとても嬉しそうに笑っていて、嫌味など微塵も感じられなかった。ほんとに嬉しくて、幸せそうに見えた。 間違いなく圭介は、両親にとって自慢の息子なのである。 おばさんたちの話はまだ終わりそうになかったから、自販機でジュースを二つ買った。 スポーツドリンクは圭介に、レモンティーは自分に。 それを飲みながら、また空を見上げた。でもやっぱり私には、いつもと変わらない普通の晴れた空にしか見えない。 空の変化はわからないけど、植物の変化は私にもわかった。 色とりどりのコスモスが咲き始めたり、道端ににどんぐりが落ちてたりするのを見ると、秋になったんだなあと感じる。 もうしばらくすればイチョウの葉が黄色に変わったりして、紅葉が始まる。そうなったら季節は完璧に秋だ。 「あれ、母さんは?」 いつの間にか圭介が目の前に居て、私と一緒にいるはずのおばさんの姿を探していた。 圭介はシャワーを浴びてきたらしく、さっぱりとした様子で、頭にタオルをかぶっている。 「あそこで他のお母さんたちと喋ってるよ」 「…ほんとだ。ずいぶん盛り上がってんな」 まだ話が終わりそうにないと悟ったのか、圭介は肩にかけていたバッグを下ろして私の隣に座った。 ふーっと息を吐いて背もたれに寄りかかる圭介に、さっき買ったジュースを渡した。 まだ缶は冷えていて、持ってると指先が凍ったようになって感覚が鈍くなる。 「サンキュ。あ、金」 「いいよ、いらないってば。しょぼいけど、勝ったお祝い」 「じゃぁ遠慮なく。いただきます」 プシュっといい音がしたと思えば、圭介は一気に半分くらいの量を飲んでしまった。 試合が終わってから一口も水分を取っていなかったのか、飲んで一息つくと生き返ったような顔をしている。 私はさっきからレモンティーを飲んでいるけど、まだ半分も飲めていない。 「晴れて良かったな」 「うん」 「試合も勝ったし」 「うん、すごかった」 「すごかったって…ちゃんと見てたのか?」 「そりゃ、もう。圭介に穴が開くくらい見てたよ」 「こえーな。見すぎだよ」 圭介は笑って、また缶に口をつけた。缶はだいぶ軽くなってる。 私も、まだたっぷり中身の入った缶に口をつけた。一口飲めば、紅茶の甘さが口に広がって、ほのかにレモンの香りが漂う。 甘いのとすっぱいのが同時にくるって、なんだか変な感じ。でも、おいしい。ごくごく飲んだから中身はやっと半分になり、 缶がすこしだけ軽くなった。なにも急いで飲む必要はないのだけれど。 私がちまちま飲んでるうちに、圭介は全部飲み干してしまって、空になった缶をゴミ箱に向けて投げた。 缶は綺麗な弧を描いて、丸いゴミ箱に落ちていく。そして、缶がカチャンと小さな音を立てた。 「俺、バスケットマンにも向いてると思わね?」 「ぜんぜん」 「こないだ体育でやったじゃん、バスケ。見てた? 結構うまいんだぜ」 「ボール蹴って先生に注意されてたくせに」 「俺じゃないし、それ」 「うそつき」 圭介から顔をそらして、また缶に口をつけた。だんだん胃が冷えてきてキュンっとすこし痛みが走る。 それにずっと缶を持っているから指先が冷たくてしかたない。 もう残り少ないレモンティーを一気に飲んで、空になった缶をゴミ箱に投げた。 圭介のように真ん中には行かなかったけれど、ぎりぎりで缶はゴミ箱に入った。 「ほら、私のも入ったよ」 「まぐれだよ、まぐれ」 そう言って、圭介はまだ濡れている頭をタオルでがしがし拭き始めた。 私はさっきの言い方にちょっとムッときたから、圭介が拭いてる上から更に力を込めてがしがし拭いてやった。 圭介は自分の手をタオルから放して私の手を掴もうとしてるけど、顔が下を向いてしまってるから思うように掴めない。 「痛えって、おい、!」 自分の意思とは別に、左手が止まった。 冷たい手に、じんわりと温かさが伝わってくる。 「うわ、冷てっ」 圭介が私の左手を握ったまま顔を上げた。それと同時に、頭からタオルが後ろに落ちる。 私は止まったままの右手をどうしていいのかわからず、ただ空中に浮かせていた。 「真冬でもないのに、なんでこんな冷てえんだよ」 「ジュースで冷えたの」 「こんなに冷たくなるか、普通」 「圭介が普通じゃないんだよ」 手をぱっと離して私はまた前を向いた。 横で圭介が何か呟いてるけど、なにを言ってるのか頭に入ってこない。 そして、握られた手に、もう冷たさは残っていなかった。 「あ、母さんたちの話終わったみたいだな」 落ちたタオルを肩にかけて、圭介が立ち上がった。 おばさんたちが居た方に目をやると、おばさんが足早にこちらへ近づいてくるのが見えた。 おばさんの表情は、さっきと変わらない、とても嬉しそうな笑顔。 圭介がおばさんに歩み寄るのを見て、私も慌てて立ち上がった。 「ごめんね、待ったでしょう」 「いえ、大丈夫です」 「早く帰ろうぜ。はらへった」 「お疲れ様。駐車場はあっちよ」 圭介はバッグを肩にかけ、先に駐車場の方へ歩き始めた。 おばさんはその後姿を見て、ふふっと笑う。 それを見た私も、自然と顔が緩んできた。 おばさんは私に、一緒に家で食事をすることを勧めた。 図々しいと思い断ったものの、結局最後にはおばさんのペースに呑まれ、甘えてしまうことになる。 「いいじゃん、食事くらい。こっちが誘ってんだからさ」 山口宅へ車が走り始めた頃、圭介が言った。 するとおばさんもバックミラーで私を見ながら、「そうそう、こっちが誘ってるんだから」と言う。 食事に誘われるのはすごく嬉しいことだけど、うちのお母さんが黙ってない。 あんたいつもお世話になって、山口さんちに迷惑かけてばっかりじゃない。 うちは何もお礼していないのに…、まったくもう。 ってなぐあいに説教されるだろう。そして私への説教が終わると、山口宅へお礼を含めた長電話が始まる。 その長電話こそが迷惑なんじゃないかって私はいつも思うけど、圭介が言うには、おばさんは嫌な顔ひとつしてないらしい。 大人になったら、あんな風に話が長々と続くものなんだろうか…私にはわからない。 家に入ってすぐ、圭介は自分の部屋へ着替えに行ってしまったので、リビングには私とおばさん二人きりになった。 おばさんと二人きりになるのは初めてではないけれど、やっぱりちょっと緊張してしまう。 おばさんは着ていたジャケットをハンガーに掛けると、遠慮せずソファーに座るように言った。 ぎこちなくソファーに腰を下ろすと、柔らかくて座り心地が良いから、緊張も徐々にほぐれていく。 おばさんはキッチンへ行ったのか、姿が見えなくなって、私はリビングに一人ぼっちになってしまった。 勝手に動き回るわけにもいかないし、誰かが戻ってくるまで黙って待とう。なんだか落ち着かないけど。 ぼうっと座って待っていると、圭介がリビングへ入ってきた。私服姿の圭介は大人っぽく見える。 圭介がソファーに座ったと同時に、キッチンの方からおばさんがトレーを持って出てきた。 そして、ふわっと甘い香りが漂う白いマグカップが目の前に置かれた。 「わあ」 「ココアで良いかしら?」 「はい。嬉しいです」 自然と笑顔になって、おばさんを見上げると、おばさんもにっこり笑っていた。 圭介が甘い香りに誘われてマグカップを覗き込む。 「圭介もココアが良かった?」 「いや、暑いからコレでいい」 圭介の前に置かれたのは、ガラスのコップに注がれた氷入りのコーラだった。 これはこれで、別の甘い香りを漂わせてる。 温かいマグカップを両手で持って、火傷しないよう、ゆっくりと一口飲んだ。 口の中にほどよい甘さが広がって、身体の中がほんのり温まる。 久しぶりに飲んだからか、それともおばさんが作ったからか、よくわからないけれど、ココアはとってもおいしかった。 「さてと、食事のメニューは何にしようか?」 「カレーがいい。カレー」 「ちゃんは? カレーでも良い?」 「私はなんでもいいですよ」 「よかった。じゃぁカレーにしましょう」 ご飯を炊かなきゃね、じゃがいもあったかしら、とおばさんがキッチンへ行こうとしたから、 私も手伝おうと思い立ち上がった。圭介も立ち上がり手伝おうとしたのを見て、 ほんとに親孝行息子だなあと思った。 でも、私達の様子を見たおばさんが笑って、手伝わなくていいわよ、と言い一人でキッチンへ行ってしまった。 私は客人で、圭介は試合後で疲れているから、というのが理由らしい。 食べさせてもらうのだから、手伝いくらいはしたかった。 仕方なくまたソファーに座り、ココアを一口飲んだ。ああ、甘くっておいしい…幸せ。 「メシできるまでどうする?」 コーラの無くなったコップの中で、氷がカランと音を立てた。 圭介はやることが無くなって、横に置いてあったクッションを潰したり元に戻したりして暇を持て余している。 「キッチン行っても、追い出されちゃうかな」 「たぶん」 私も他にやることがなくなって、とりあえずココアを飲んだ。 そして改めてリビングを見渡した。 暖かな日差しが入り込む窓の外に、色とりどりのコスモスが咲いている。 まっすぐ伸びたその花は、他のどの花よりきれいで目立っていた。 「庭出る? 久しぶりに」 私が返事をする前に圭介は立ち上がり、窓のところへ行って鍵を開け始める。 そして、置いてあった一足のスリッパを私に履かせ、自分は玄関にスニーカーを取りに向かった。 ウッドデッキに座り待っていると、圭介がサッカーボールを持って戻ってきた。 圭介が外に出てすることってサッカー以外に無いんだろうか…私は何をすればいいんだろう。 そう考えている間に、圭介はボールを転がし始める。 私は何もすることがなくって、庭に咲く花たちを眺めることにした。 庭は夜中に降った雨がまだ染み込んでいて、雨上がり特有の草の匂いがした。 真夏の雨上がりの草の匂いは、むっとしていて気持ち悪くなるけれど、 気温の下がった今では、とても清々しくて深呼吸したくなる。 「80、81、82、83…」 しばらくぼんやりとコスモスを眺めていたら、視界にリフティングをしている圭介が入ってきた。 圭介の視界には白黒のボールしか入ってなくて、それを落とさないように徐々に移動してくる 90回目を数えた時には目の前に立たれてコスモスが見えなくなってしまった。 「95、96、97、98、99、100!」 最後に高く蹴り上げたボールを両手でキャッチすると、圭介は笑顔で私の方を向いて感想を求めた。 これくらい圭介にとって朝飯前なのも、圭介がもっとすごいことができるのも知っているから、特に言うことが無い。 「もうこれくらいじゃ驚けない」 「ちぇっ、つまんねえの」 すっぽりと隠れてしまったコスモスを見る為、そこをどくように言うと、圭介はしかめっ面になってどくのを拒否した。 …小学生か、きみは。圭介がその場から動かないから、仕方なく私が右にずれると、それに合わせて圭介も動いて正面に立った。 首を動かして見ようとしても、それに合わせて圭介も動くからコスモスが見えない。 「もー、近くで見るからいい!」 そう言ってコスモスの方に歩き出すと、圭介が笑い出した。なんてやつだ、もう知らない。 笑う圭介を無視して、私はコスモスの前に行き、近くでその姿を見た。 すらっと伸びた細い茎の上に、濃淡のピンクや白の花が空を見上げるように咲いている。 陽の光を浴びて風に揺れる姿は、可憐という言葉がとてもよく似合うと思った。 見ているだけで、さっきまで少し怒っていた気持ちも和らいでしまう。 こんな花だったっけ、と思ってしまうほど、目の前にあるコスモスはとても魅力的に見えた。 「そんなに近づいてさ、毛虫いたらどうすんの?」 「あ、毛虫だ」 「うわあぁ!」 騙されないと思ったのに、圭介は一気にコスモスから離れた。 もし本当にいたら、私だって圭介と同じように逃げるよ。 うわあ…想像しただけで鳥肌立つ。 「嘘だよ。いないよ、毛虫なんか」 「マジで? うわ〜やめろよ、そういう嘘はさ」 「人に意地悪した罰なんだかんね。これでおあいこ」 「おあいこじゃないって、俺の方がダメージでかい」 「ふぅん、そういうこと言うんだ」 存在しない毛虫に対して、なんて情けない。 サッカーしてるときの圭介なんて他の誰よりもかっこいいのに。 私はまたコスモスの方を向いて、また嫌な気分を忘れようとした。 すると後ろから足音が聞こえて、圭介が戻ってくるのがわかったけれど振り向きはしなかった。 謝るまで、口利いてやんないんだから。そう思う自分も、変な意地を張って、小学生みたいだなあと思った。 「ごめんなさい、もう言いません」 すんなりと謝られたかと思ったのと同時に、私の身体が温かいものに包まれた。 背中から伝わる体温は、ココアで温まった私の身体をいっそう温める。 そして肩のあたりで交差された腕は、柔らかく私の身体を閉じ込めた。 コスモスのように陽の光をたくさん浴びた圭介の匂いと、それを包んでしまうような清々しい草の匂い。 あまりに心地よくて幸せで、いま居る場所を忘れてしまいそうになってしまい、私は慌てて圭介の腕を解こうとした。 おばさんに見られてしまったら、私はパニックを起こして食事どころじゃなくなる。 おばさんは気にせず笑ってそうだけど、私は穴に入りたくなるほど恥ずかしくなるに違いない。 そんな私の気持ちをわかっているはずなのに、圭介は腕を解こうとはしなかった。 「圭介」 「もうちょっと」 「ムリムリムリ!」 私は力いっぱい圭介の腕を振り払った。 私の顔は火照って真っ赤なのに、圭介は顔色を変えずにきょとんとしている。 なんでこんなに余裕なの、と思っていたら頬にぽつんと何かがあたった。 なんだろうと思って頬に手をやると、触った部分が濡れていた。 手でそれを拭き取ると、今度は鼻にぽつんとあたった。 「あ…降ってきた」 先に空の様子に気付いた圭介が呟いた。 言われて見上げた空には、真上に灰色の雲が広がっている。 空を見ている最中にも振り続ける雨が、おかまいなしに顔や髪を濡らしていく。 いまさら天気予報通りの天気になるなんて…。 「家入ろう」 圭介はそう言うと、置きっぱなしにしていたボールを拾いに行った。 雨が余計な匂いを落とすから、よりいっそう強くなる草の匂い。 雨粒が当たり、コスモスが踊るように揺れる。 なんだかとても懐かしい気持ちになって、ずっとここに居たくなった。 昔もこんな風景を見たことがあるような気がしたけれど、思い出そうとしても思い出せない。 パチパチと雨が地面に落ちる音が次第に大きくなっていく音の中に、圭介が私の名前を呼ぶ声が聞こえる。 「いま行く」 返事をして、戻る前に一度だけ深呼吸をした。確かめるように、ゆっくりと。 |
草の匂い / 2005.10.07 / STAGE.213投稿作品 | 戻る |