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全ては起こるべくして起こっている。
たとえそれが信じられないことだとしても、事実はそうなのだ。
起きてしまったことはどうすることもできないけれど、それを自分の脳が理解できるかが問題だった。
長い授業を終えて、その後にくじ引きで決まってしまった委員の仕事をして、やっと乗り込んだ電車の中で読みかけの本を開く。 読みかけのミステリー小説はクライマックスを迎え、探偵の主人公が推理披露を始めたところだった。 ちょうど空いていた端の席に座れたこともあり、私はすぐに小説の世界へと没頭した。 犯人の巧妙な手口を次々と暴いていく主人公に清々しさを感じていると、 降りるべき駅が次に迫っているのに気が付いた。 いいところだけど、続きは寝る前に一気に読んでしまおう。またしおりを挟んで本を鞄にいれた。 混雑する車内は学校帰りの学生が大半をしめていて、賑やかというよりは少し騒々しさを感じる。 近くで喋っている男子学生達は大きな笑い声を響かせていた。 苦手だな、こういう人達。自分に関わることは無いのだけれど、そんなことを考えてしまう。 ただでさえ男の人というのがちょっと苦手な部類に入るのに、大人数でかたまって大きな声で話してたりすると 恐怖さえ感じる。これは少し大げさかもしれない。だけどそれほど私は男の人に免疫というものがなかった。 女子校に通う私は、会話をする男の人といえば教師か父親くらいしかいない。 同級生の中には、彼氏のいる子も何人かいるけれど、私はまだそういう考えを持ち合わせていなかった。 だってまだ中学生だし、恋愛への興味も薄い。彼氏がいるということはそんなに素敵なことなんだろうか。 同級生から恋愛相談という名の愚痴を毎日のように聞いてる自分にとっては、恋愛をすることに何の憧れも持てなくなっていた。 どうせこの世には絵本の中の王子様みたいな人なんて居ないのだ。 ふられたとか、浮気されたとか、別れたとか、いっぱい怒って泣いて苦しい思いをしながらも、どうしてまた 恋愛を繰り返すのか。同級生達の行動に疑問を抱けば、はまだまだおこちゃまだね、と 可哀想な目で見られてしまった。中学生なんだから子供でもいいじゃない、なんて思ってしまう私は 彼女達の言うとおり本当の意味での子供なのかもしれない。 そんなことを考えている間にホームに到着し、人ごみの波に流されながら電車を降りた。 うぅ、人ごみっていつまでたっても慣れないものだ。流れが落ち着くまで端に立って待つことにしよう。 ぞろぞろと改札までの階段へ続く列から離れて一息つく。 目の前を歩く高校生カップルは指を絡めてしっかりと手を繋いでいた。 彼女はぴったりと彼氏にくっついて、彼氏はそんな彼女に大丈夫?なんて優しく声をかけている。 なんだか微笑ましいな。羨ましくないと言えば嘘になるが、あの彼女を自分に置き換えて考えることは容易ではなかった。 高校生になったら私にも彼氏できるのかな……カップルを遠目に見ながら再び歩き始めると、 肩にかけていた鞄に誰かの背中がドンっとあたった。わっ、と驚いてちょっとよろけるだけで転ばずには済んだ。 「あっ、ごめんっ」 私が振り向いたと同時に声がして、その人物と目があった。 なぜだか相手も驚いている様子に見える。ぶつかってきたのはそっちのはずなのに。 「おいおい、ちゃんと前見て歩けよー」 「女の子にぶつかんなよ」 わはは、という笑い声とともにその人の後ろへ目を向けると、電車の中にいた男子学生達がいた。 ぶつかった人も彼らと同じ制服を着ている。仲間だったのか。 「お前らが押すからだろっ」 「押してねーし、自分からぶつかりにいったんだろ」 人ごみが引いたあとのホームには彼らの笑い声だけが響いていた。 嫌だ、なんなんだろうこの人達は。 にやにやと笑っている人達に不快感を覚えて、もう無視してさっさと帰ろうと階段を上り始めた。 「あ、あの、ちょっと待って!」 数段上ったところでさっきぶつかった人が追いかけてきた。 今度はいったい何なのかと立ち止まってみると、彼はどことなく緊張した面持ちだった。 「な、なんですか……?」 自分から声をかけてきておいて、もごもごと言葉につまっている彼に恐る恐る聞いてみる。 知らない人に声をかけられることって、こんなに怖いことだっただろうか。 無意識のうちに私の表情まで緊張でこわばってきてしまった。 「えっと……いま、その……彼氏っていますか?」 手に汗握って待っていた言葉が理解できなくて思わず大きな声で「はあ?」と聞き返してしまった。 聞き返された彼はまた言葉につまって、いやそのあの、と顔を少し赤らめながら頭をかいている。 短い髪から除く耳も赤い。なぜ聞いたほうが照れる。 どうして初対面なのにそんなこと聞くんだろう。しかも彼氏がいるか聞くなんて失礼な質問じゃないか。 もしかして罰ゲームかなにかの標的にでもされてるんだろうか。 急にスイッチが入ったように顔に熱が集まり、恥ずかしさと怒りがこみ上げてきて爆発しそうだった。 あなたにそんなこと関係ないじゃない! って叫んでしまいそうだったけれど、実際のところは声も発せられなかった。 いてもたってもいられなくなって、その場から逃げるように階段を一気にかけあがった。 後ろからまた呼び止める声と、げらげらと下品な笑い声が聞こえる。 だけど私は振り向かずに階段を上りきり、声が聞こえなくなったあとも家まで一目散に走って帰った。 頬に冷たい風があたっても、熱をおびた頬が冷めることはなかった。 ほんとうになんだったんだあれは。なにが起きたんだ。 息を切らしながら家に着いたとき、起きたことを整理しようと思ったけれど無理だった。 ただ彼の声だけが頭の中でリピートする。 でもやっぱり恥ずかしさと怒りの混ざったような感情がわきあがってきて、結局読みかけの本を開くこと無く一日が終わった。 「それってさ、ナンパじゃない?」 次の日、学校に到着するなり一番の親友に昨日の出来事を打ち明けると返ってきた答えはそれだった。 「なな、ななななナンパ……!?」 あっさりとそんなことを言ってのける友人に私は空いた口がふさがらなくなった。 ナンパなんて言葉が頭の中になかったし、そんなこと経験したこともないのだから驚くしかなかった。 そんな私に驚きすぎだと友人は少し飽きれた様子で、鞄から手鏡を出すと髪を整え始める。 「ナンパって、私まだ中学生だよ?」 「ばか、そんなの年齢関係ないわよ」 まぁ相手がおじさんだったら犯罪だけどね、と付け加えて友人は笑った。だけど私はちっとも笑えない。 私の頭の中にあるナンパのイメージ像とは、きれいなお姉さんがちゃらちゃらした感じの人にお茶でもいかない?なんて 話しかけられているようなものしかなかった。でもこれはテレビで見たイメージがそのまま残っているだけで、 いまの時代にこんなシチュエーションがあるのかどうかは定かではない。 もちろん私は今までそんな経験をしたことは無く、声をかけてきた人物も自分と変わらない年齢だったこともあり、 ナンパという言葉のイメージと昨日の出来事をうまく結びつけることはできなかった。 「その人どんな感じの人? かっこよかった?」 友人は鏡の中の自分に視線を合わせながら聞いた。興味があるのか、ないんだか。 「うーん、かっこいい……のかなぁ?」 昨日のことを思い返して見ても、相手の顔をはっきりと思い出すことはできなかった。 すらっと伸びた背。顔を上げてぶつかった視線。風に揺れる短い髪の毛。ほんのりと赤くなった耳。 父親や教師とはまた違う、まだ幼さの残る低い声。私にとってはその全てが新鮮だった。 本当にこれはナンパというものだったんだろうか。あのまま彼の話を聞いていたら、お茶にでも誘われていたんだろうか。 想像してみた光景の中にいる私は私じゃないみたいで、なんだか気恥ずかしくなった。 「、ほっぺ赤いよ」 いつの間にか視線を鏡から私へと向けていた友人は、くすくすと笑いながら言った。 そんな自覚も無かった私は咄嗟に両手で頬を隠したけど遅かったようだ。 「そんなにかっこよかったなら、なんで逃げちゃうかなぁ」 もったいなーい、と友人は机の下で足をばたばたさせる。 「だっ、だって、いきなり声かけられたら怖いし……ビックリして……!」 「まぁ仕方ないか、あんた男に免疫ないもんね」 「どうせ私はおこちゃまですよ……」 過去に言われた言葉を思い出して拗ねて見せると、友人はそんなとこも可愛いけどね、とまたくすくす笑った。 彼氏のいる友人は、私と同い年のはずなのにずいぶん年上に思えた。 余裕さえも感じられるその態度に、恋愛は人をここまで変えてしまうのかと恐ろしくなった。 彼氏ができる前は一緒にふざけてばかやったりしてたのに、今の友人は女子中学生というよりは一人の女の人になってしまっていた。 自分だけが置いていかれてるようで少し寂しさを感じる。 「彼氏がいるって、そんなに素敵なこと?」 ぽつり、と静かに本音がこぼれた。これじゃぁただの妬みだ。 そんなつもりは無くとも、言葉には嫌な空気がまとわりついているように思えた。 怒られる、と思った。陰気臭い私は嫌われたって仕方がない存在だ。 「うん、素敵だよ」 だけど友人の言葉は、私の想像をはるかにこえるほど柔らかく、優しかった。 友人はブレザーのポケットから携帯電話を取り出し、裏に貼られてるプリクラをそっと指で撫でる。 「愛すのも愛されるのも、すっごくしあわせなことなんだよ」 寄り添って笑う写真の二人に自然と頬が緩む。世間ではこれを惚気と言うのかもしれないけれど、私は嫌な気持ちなど微塵も感じなかった。 友人の顔は本当にしあわせそうで、そんな表情を見るのは始めてだから少し言葉を失ってしまった。 「もちろんのことも愛してるよ?」 にっこりと笑って私を見る友人に、頭で考えるよりもさきに「きもちわる」という言葉が出た。 ひどいことを言ったのに友人はちっとも怒らずに、むしろ嬉しそうに笑うものだから私もつられて笑ってしまう。 さっきまで大人びて見えていた友人は、ただの女子中学生へと戻っていた。 委員会が無かったから久しぶりに友人と帰宅しようと誘ったけれど、結局私は一人でいつもの通学路を歩くことになった。 友人は愛しの彼氏さんと放課後デートの約束をしていたらしい。 誘いを断られて少しショックを受けた私に、今度の休みは二人で騒ごう、と遊ぶ約束をしてくれた。 ついでに何かおいしいケーキでもおごってもらうことを無理やりとりつけ、校門前で友人と別れた。 どこのどんなケーキがいいだろうか、と少し浮き足立ちながら駅の改札を通ったとき、 あるものを見つけて私はホームへ降りるのを躊躇してしまった。 見覚えのある背格好の男子学生が一人、ホームにある自動販売機によりかかりながら立っていた。 もしかして、昨日のあの人ではないだろうか。周りには昨日の仲間達の姿は無く、彼は一人きりのようだった。 あと数段でホームへ降りられるけど、なんともいえない気まずさと少しの恐怖心が私の足を止める。 彼が電車に乗るまでどこかに隠れていようか、それとも堂々と彼の前を通り過ぎて帰ってしまおうか、 いろんな考えが小さな頭の中をぐるぐる回りだした。さっきまで考えていたケーキのことなんてずっと遠くのほうへと追いやられてしまっている。 私の考えがまとまらないうちに事態はまた動き出した。彼が私に気づいたのである。 驚きと喜びが半々のような彼は、目が合うとまっすぐに私の方向へ歩き出してきた。 なんでこっちにくるの、こないでよ、なんて声にすることもできないうちに、手の届く距離まで彼は来ていた。 「昨日は驚かせてごめんっ」 何を言われるかと思いきや、彼は私の前でそう言って頭を下げた。 立ったままでは見えない彼の頭のてっぺんが目の前にある。 そばを歩いていく人達が何事かと不思議そうな顔で私達を見ていることに気づいて、 私は慌てて頭を上げてもらうように頼んだ。 これじゃまるで私が悪いことをしているようでいたたまれなかった。 「あのっ、謝らなくていいですから!」 「でも、」 まだ納得のいかなそうな表情の彼をとりあえず落ち着かせるべく、私はホームのベンチを指差し 「ここじゃあれなので、座って話しましょう」などと提案し通行人の注目を集めるこの場から逃げることにした。 本当なら「大丈夫ですから!」と言い切って逃げてもよかったけれど、昨日逃げたことによって彼に頭を下げられてしまっては、 話をちゃんと聞いてあげるほかなかった。もうどうにでもなってしまえ、なんて自暴自棄な考えも頭を過ぎっていた。 「ほんとにごめん、傷つけたよな」 ベンチに腰掛けるなり彼はまた申し訳なさそうに口を開いた。 傷ついてません、なんて昨日の私の行動からして嘘になるから言わなかった。 肯定も否定もせず、ただ「大丈夫ですから」としか言えない自分は少し情けなく思えた。 もう少し気の利いた言葉はかけられないのか。 眉を八の字にして気を落とす彼は、頭を抱えて、はぁ、とため息をついた。 もしかしたら私よりも彼の方がダメージを受けているんじゃないだろうか。 なんだかよくわからないけどそんな感じがした。 「あの、罰ゲームかなにかだったんですよね。もういいですよ、気にしないでください」 私が傷ついたことを心配してるならもう謝られたくなかったから、そんな言葉が口から出た。 起きてしまったことは仕方が無いし、本当に申し訳なさそうに謝る彼を見るのが辛かった。 正直私は友人に話したことで気持ちが和らいだ部分もあったし、もうこのことは終わりにしてもよかった。 「ちがっ、そうじゃなくって!」 だが彼にとっては終わりにしてはいけなかったようで、私の言葉は地雷を踏んでしまったらしい。 思わず声が大きくなった彼はホームの人達の視線をまた集めてしまっていた。 自然と注目は一緒にいる私にも向けられるわけで、それに気づいた彼は大きな体を小さくさせて 「ごめん」とまた謝って顔を下げた。 「言いたかったのは、あんなことじゃなかったんだ」 ばつが悪そうに彼が呟く。 ホームに電車が到着し、乗客をたくさん乗せたそれは私達を置いてゆっくりと離れて行った。 日も落ちてきて、ホームを赤い夕焼けが染める。 電車が過ぎ去った後、辺りを静寂が包み、それがまた私の体に緊張を走らせた。 脈が少し速くなり、無意識のうちに力の入った両手はスカートを掴む。 私から話すより、彼の言葉を待とう。 そう思って視線を彼の方を向けたとき、彼はじっと私のことを見ていて、視線ががっちり合ったのと同時に私の心臓は大きく飛び跳ねた。 先ほどまでとは違うまっすぐとした瞳に私を映して、信じてもらえないかもしれないけど、と前置きをしてから彼は言った。 「きみが好きなんだ」 生涯初めての告白は、空気を掴むことのように現実味が無くて、ただ言葉だけが頭の中でふわふわと浮いていた。 きみがすき。すき。彼が、私を。信じる信じないよりも、その言葉を受け止めることさえ私はできないでいる。 「ほんとに、私、なんですか」 人違いとかじゃないんですか、と気力の無い声で尋ねる。 彼氏彼女となった場合を想像するとしても、彼に私は不釣合いとしか思えなかった。 とびきり可愛いわけでもないし、さえない地味な女子中学生の私が、どうして今告白をうけているのか。 いろいろな疑問が沸きあがってきて、また口を開けば彼を質問責めにしてしまうんじゃないかと思った。 「人違いどころか、いま話してて余計好きになってきてんだけど」 最初は一目惚れだったんだけど、と 口をおさえて耳まで赤くして笑う彼を見て、体の奥底から熱い血液が体中を巡り始めた。 彼はいったい、なにを言っているんだ。とっても失礼だけど、頭がおかしくなってしまってるんじゃないか。 私の脳みそは働くのを止めてしまったのかと思えるくらい、理解力が著しく低下してる。低下というかむしろ停止してる。 頭がおかしいのは完全に私のほうだ。 ぎゅっと掴んだスカートを離すと、汗で湿ってしわくちゃになっていた。 予定では、スカートはこんなになるはずではなかったのに。 いつも通り電車に乗って、気になってた本の続きを読み終えて、それから次の休みにおごってもらうケーキを考えるはずだったのに。 ごちゃごちゃになった頭の中に、幸せそうに笑う友人の顔が浮かぶ。 嬉しさよりも恥ずかしくてなんともいえない歯がゆさを感じてしまい、とてもじゃないけど友人のようには笑えなかった。 人に想われることって、こんなにも複雑なことだったとは。 少し前まで、恋愛なんて自分とは無縁のものだと思って生きてたのが嘘みたいだ。 「私、あなたの想像してるような子じゃないかもしれませんよ」 ほんとうにほんとうにいいんですか、と念を押すように聞く私に彼は白い歯を見せて笑った。あ……この笑顔けっこう好きかもしれない。 「だから、知りたいんだ……あ、名前からだよな。俺は山口圭介」 「です」 今更な自己紹介にお互い苦笑した。だけど名前を知ったことで距離がだいぶ近くなったような気がした。 ホームにはまたいつも通り人が集まりだして、そんな喧騒の中流れるアナウンスが電車の到着を知らせる。 先ほどまで辺りを包んでいた真っ赤な夕焼けは、次第にその姿を消して辺りを薄暗くしていた。 「とりあえず、乗って話そうか」 そう言って山口くんは鞄を持って立ち上がった。私も小さく頷いてそれに続く。 山口くんはまだ少し照れくささが消えず、はにかんだ笑顔で私を見る。 そんな顔で見つめられたら、私だって照れずにはいられないじゃないか。 私のことが好きだという彼と、無意識のうちに気持ちが少しずつ彼の方に傾き始めてる私。 恋愛って思ってたよりはいいのかもしれない、なんて自分が単純すぎて笑ってしまう。 ホームに電車とともに流れてきた風が、私のしわしわのスカートを祝福するように揺らした。 |
バニラの風が吹く / 2010.03.02 | 戻る |