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 木製の重厚な扉を静かにノックし名前を告げると、数秒と待たずに入室の許可が下りた。 改めて姿勢を正し、少しの間を置いてから、ゆっくりと扉を押し開き足を踏み入れる。
 室内は重々しい雰囲気に包まれていた。歩を進めると、深い静寂の中に硬い靴音が反響する。 正面にある大きな窓からは暖かな秋の陽射しが注ぎ込み、 窓を背に机に向かう一家の主の金色の髪をいっそう輝かせていた。 黒い革張りの椅子に腰掛ける主――キャバッローネファミリー十代目ボスは、厳格な表情で手にした書類に目を通している。
 私を含め部下達は黒いスーツに身を固めているのに対して、ボスは長袖Tシャツにカーゴパンツというラフな格好でいた。 そして肘の辺りまで捲り上げたTシャツから覗くのは、鮮やかな金色の髪より目を引く、跳ね馬の刺青。 左手の甲の炎を象ったものから始まるそれは首筋にまで至る。 それはキャバッローネのボスであることを証明していた。
 若年ということもあって一見、五千のファミリーを持つマフィアのボスには見えないが、 先代が傾けた財政を一代で立て直したという確かな実績、 そして力強さの中にも優しさや暖かさが感じられる人柄は部下を含め幅広く慕われ周囲の人望も厚く、ボスとして申し分なかった。
 机に歩み寄ると、傍に立っていたロマーリオが「状況は」と静かに尋ねた。 私はそれに目で頷き応え、机の前に立つ。

「今のところ、目立った動きはありません。ですが、引き続き監視を行います」

 そう報告をすると、ボスは書類に目を向けたまま「わかった」と答えた。
 近頃、対立するファミリーの者が辺りを嗅ぎ回っているという情報が入った。 相手は中小マフィアで恐れるほどの存在ではないが、シマの治安を乱そうとする者がいれば黙って見過ごすわけにはいかない。 地域住民を巻き込んだ抗争へと発展する可能性も無きにしも非ず、 今も数人の部下が疑いのある者を監視し警戒を強めている。
 ボスは手にした万年筆で目を通していた書類にサインをすると、机上に広げていた書類をまとめロマーリオへ手渡した。

「ボス、少し休憩をとられてはいかがですか?」

 食事の時間を除いて、ボスは朝からずっと机に向かい書類の整理に追われていた。 先日、日本から長旅を経て帰国したばかりということもあって、無理をされているのではないかと心配になる。

「そうだな。丁度、一区切り付いたとこだし」

 こちらを向いてボスが微笑むと、張り詰めていた空気が緩み始めた。 人を惹きつける柔らかな笑顔。それを見ているだけで私は安堵を覚える。

「わかりました。すぐにご用意を」
「あぁ、頼む。も一緒にどうだ」

 ボスからの突然の誘いに少し驚いて、思わずロマーリオを見てしまった。 すると、ロマーリオは声をあげて笑い出した。

「ボス、一人は寂しいらしいぜ」
「なっ、俺がガキみてーな言い方すんなよ! 、お前だって朝から働きづめだろう」
「私は――」

 平気です、と答えようとしたとき、ロマーリオにそっと肩を叩かれた。 ロマーリオを見上げると「過労で倒れられたら困るからな」と少し口角を上げて微笑みながら言われた。 その言葉は私にだけにではなく、ボスにも向けられているのだろう。 二人に比べれば私の仕事量は大したことはない。 私なんかよりも、ロマーリオが過労で倒れてしまった場合の方が一大事だ。
 しかし、ロマーリオはそれだけ言い残すと、ボスから渡された書類の束を携え部屋から出て行ってしまった。 部屋の中に再び静寂が戻る。視線をボスの方へ戻してみると、ボスは微苦笑を浮かべ私を見ていた。 断る理由はないのだから、返事はもう決まっている。

「では、お言葉に甘えて」

 つられて私も同じように笑い返事をすると、ボスは頷き、今度は安心したように微笑んだ。



「ボンゴレ十代目のご様子はいかがでした?」

 エスプレッソの芳醇な薫りが漂う中、テーブルを挟み向いのソファーに悠然と身を沈めるボスに尋ねた。
 先日ボスが部下を引き連れ、はるばる日本へ渡ったのは次期ボンゴレファミリーのボス――沢田綱吉氏に会う為だった。 聞くところによると、十代目はまだ十代半ばの学生らしい。 初代の血を受け継いでいるとはいうものの、つい最近までファミリーのことをご存じなかったようで、 次期ボスに選ばれたということに大層驚かれていたそうだ。

「ボスとしての資質ゼロだったぜ」
「え?」

 予期せぬ言葉にとぼけた返事をしてしまった。 ボスの言葉を疑う気持ちは毛頭ないけれど、 人を見抜く力に優れているというボンゴレ九代目が選んだ後継者が資質ゼロとは信じ難かった。

「オーラも覇気も期待感もねぇし、面構えも悪い。おまけに、当人はボスになる気はねぇときたもんだ」

 日本での出来事を思い出して笑い混じりに話すボスを前に、真意がわからないままの私は目を丸くするほかなかった。 同盟ファミリーの中心であるボンゴレの次期ボスがそうした状態では、不安を覚えざるを得ないのではないだろうか。

「まぁ、心配することはねぇ。昔の俺にそっくりだったからな」
「昔のボスに、ですか?」

 現在のボスから、資質ゼロの姿を想像するのは困難だった。
 私がボスに初めて会ったのは十代目に就任後のことだったから、就任前のボスについては知らないことが多い。 ボスは時折、自身の足を踏んで転倒したり、花瓶を倒して割ったりするなど、多少ドジを踏むことはあるけれど、資質ゼロと言い切れる程の姿は見たことがなかった。
 今現在の姿からオーラや覇気を引き面構えの悪いボスを想像してみる……が、現在とあまりにギャップがありすぎて可笑しな想像をしてしまった。

、顔がニヤけてるぜ」

 指摘され我に返ると、ボスが私を見てくすくすと笑っていた。 途端に羞恥心が生まれ頬に熱が集まる。 俯いて謝ると、ボスが今度ははっきりと笑いながら「謝るこたーねぇよ」と言った。 ゆっくりと顔を上げてボスの表情を伺ってみる。すると、互いの視線がぶつかった。 けれど、私の様子に可笑しそうに頬を緩めているボスと目を合わせ続けることができず、すぐに目を逸らしてしまった。 依然として頬が熱い。若干、鼓動が早くなっている。 からかわれているのだと、ボスの表情を見てやっと自覚した。

「ボスの方こそ、顔がニヤけてますよ」
「俺は普段からこういう顔だ」
「いつもはもっと凛然とした顔だったと記憶していますが」

 嘘を吐きながらも平然としているボスに皮肉を交えながら言い返すと、ボスはまた声をあげて笑った。 その様子を見て、私も堪えきれずに笑ってしまった。

「ボスも当初は、十代目を継承される気はなかったのですか?」

 ひとしきり笑った後で、ふと私は先程の言葉が気にかかり、カップを口に運ぶボスに尋ねてみた。 ボスはコーヒーを一口飲むと、カップを手にしたまま「なかったな」ときっぱり答えた。 そして二口目を飲むとカップを置き、話を続ける。

「マフィアのボスなんてクソくらえと思ってたからな」
「それほど嫌悪されていたんですか……?」
「あぁ。リボーンがいなかったら、その考えも変わらねぇままで、ボスに就くことなんてなかったと思ってる」

 ボスの家庭教師をしていた、呪われた赤ん坊――アルコバレーノの一人であるリボーン。 マフィア界で彼の名を知らぬ者などいない、と言っても過言ではないだろう。 彼はボンゴレ九代目が最も信頼する殺し屋であると同時に、家庭教師としても大きな役割を果たしていた。 そんな彼の実力を間近で見ることはできなかったのは残念だ。 彼は今、ボンゴレ十代目の家庭教師として日本で生活している。

「ツナにもリボーンが付いてんだ。余計な心配はかえって失礼だろう」
「そうですね」

 頷き、私もコーヒーを口にした。口の中にほどよい苦味が広がる。飲むと身体がほっと落ち着いたような気がした。
 ふと思えば、こうしてボスと二人で休憩をとるなんて久し振りだ。 普段はロマーリオを加えた三人か、それ以上でいることが多いから、二人ということを意識すると何だか不思議な感じがする。 そもそも、このソファーに座るということが滅多にないし、この部屋に長居することもそうそうない。 いつも用件が済むとすぐに退室していたから、なくて当然なのだけど。

も一緒に日本へ行けばよかったのにな」

 なかなかいい所だったぜ、とボスが言う。
 日本へ発つ前、ボスと共に数十名の部下達が同行するのが決まったとき、ボスとロマーリオは私にも声をかけてくれた。 しかし、私はその誘いをあえて断り、留守番をすることを選んだ。

「ボスの不在を護るのが私の務めですから」

 出発前と同じ言葉をボスに告げる。命に代えてもボス及びファミリーを護るのは私の役目であり、誇りでもあった。
 日本はイタリアに比べて平穏だ。それに加えロマーリオが付いているのなら、まず心配はいらない。 私はこちらで問題が起きぬよう最善を尽くすことが大切だと思った。 幸い、ボスの不在中には前述した通り小さな情報が入っただけで、大きな問題が発生することはなかった。

、お前の働きには本当に感謝してる」

 ボスは私の返答を聞いて困ったように笑った後、穏やかな眼差しを向けながらそう言った。 その言葉に私は「当然のことをしたまでです」と首を振って答える。
 感謝されるなど恐れ多い。むしろ感謝しなければならないのは私の方だ。 ボスは数年前、激しい抗争の果てに瀕死の重傷を負い倒れていた私を助けてくれた。 そして、抗争に破れ当時所属していたファミリーを失い拠り所を失くした私を、 キャバッローネに迎え入れてくれた恩は一生忘れることはない。 その恩に報いいるには、キャバッローネの名に恥じぬよう務めを果たさなければならないが、 私はまだ未熟でボスを支えるには力不足だ。だけど未熟者なりに、自分にできることは最善を尽くすと決めた。 敬愛するボスに、生涯変わることのない忠誠を誓ったように。

「俺がツナを心配しない理由は三つある。昔の俺に似てること、リボーンが付いてること……もう一つは何か、わかるか?」

 唐突に出された問題に、私はすぐに答えを出すことができなかった。 ボンゴレ十代目に関する知識が乏しい上に、リボーンさんが付いていると言うことで納得し安心してしまっていたから、他の理由が思い浮かばない。 ここで即答できないということも、私がまだ未熟である証拠だと思う。我ながら情け無い。
 黙り込んでしまった私に、ボスは笑うことも咎めることもせず「ボス思いの仲間がいること、だ」と答えを教えてくれた。

「仲間……、ボンゴレ十代目にもう仲間ができていたとは存じませんでした」
「数は少ねぇけどな。ボス共々まだ子供だが信頼できる。ボスにとって、自分を思ってくれる仲間ほど心強いもんはないぜ」

 真っ直ぐ私を見つめながらボスが言った。深みのある焦げ茶色の穏やかで優しい瞳。 正直、冷酷非情なマフィア界にこんなに優しい瞳を持つ人が居るなんて思いもしなかった。 こんな瞳を持っているのは、私が知る限りでは、ボスとボンゴレ九代目の二人だけだ。

がファミリーに入るに至った経緯を考えると手放しには喜べないが、俺はに出会えて本当に良かったと思ってる」
「そんな、もったいないお言葉……!」
「そう謙遜すんな。ファミリーに入ってからのお前の働きは賞賛に値する。周りの奴等もそう思ってるはずだ」

 ボスの口から次々と出てくる身に余る言葉に、私は首を左右に振って応えた。

「恩を返すにはまだまだ力不足です……。私はボスに出会っていなければ、今ここに存在することはなかったんです。どんなに感謝しても、しきれません」
「俺は恩を売ったつもりはないぜ。勝手に助けただけだ。恩返しなんてしなくたっていい」
「そういうわけにはいきません!」

 思わず声を大にして言ってしまった。 はっとしてすぐ謝ると、ボスは小さく首を振り、「そう言うと思った」と目を細めて笑った。

は肩に力が入り過ぎだ。毎日そんな状態だと気疲れするぜ」
「大丈夫です。私、身体は頑丈なんです。風邪も滅多にひかないですし――」
が俺を心配してくれるように、俺ものこと心配してるってこと、わからねぇか?」

 落ち着いた柔らかな声が私を包む。それと同時に、胸がとくんと鳴る。 何もかも見透かされているような瞳から視線を逸らそうと思ってもできなくて、言葉を発することもできなかった。 ボスも視線を合わせたまま、黙って私を見つめる。 私は瞬きすることすら忘れて、呼吸をしているのかどうかもわからない状態で、優しく笑うボスに魅入ってしまっていた。 静けさが戻った室内に、私の高鳴る胸の鼓動だけが聞こえる。どうしてこんなに胸が高鳴るのだろう。 このまま目を合わせていたら、頭も心もどうにかなってしまいそうだ。
 すると突然、けたたましい電子音が静寂を破るかのように鳴り響いた。 その音によってようやく時間が動き出す。 ボスはポケットから携帯電話を取り出すと「わりぃ」と私に一言断りを入れてから通話ボタンを押した。
 ボスが通話している最中、私は気持ちを落ち着かせる為に冷めたコーヒーを一口飲む。 丁度いいタイミングで電話が鳴ってくれたことに少し感謝した。 今日の自分はなんか変だ。ボスの言う通り、気疲れしてるんだろうか。そう思ったけれどすぐに、それはない、と心の中で自問自答した。
 もうそろそろ仕事に戻ろう。コーヒーをもう一口飲んでから、私はソファーから立ち上がった。 ボスは通話を手短に済ませると、電話を再びポケットの中へ戻した。

「私、仕事に戻ります。長居してしまって、すみません」

 一礼して去ろうとした時、不意に名前を呼ばれた。 振り向こうと思った矢先に腕を掴まれ、いつの間にか後ろに立っていたボスに引き寄せられる。 何事かと思い驚いて顔を上げると、目の前で金色の髪が揺れた。 こんなに間近で見るのは初めてだな、とどうでもいいことが頭に思い浮かぶ。 そして次の瞬間、小さな音と共に柔らかな感触が左頬に伝わった。 また金色の髪が揺れて、顔をくすぐったかと思えばボスと目が合った。 相変わらず穏やかで優しいその瞳の中には、唖然としている私の顔が映っている。

「次に日本へ行く時は、も連れて行くからな」
「え?」

 ボスの行動と言葉が噛み合っていなくて、私はまたとぼけた返事をしてしまった。

「俺にもこんな優秀な部下が居るってこと、ツナに自慢してぇから」
「じ、自慢って……!」

 決まりな、と子供の様な笑顔を見せるボスに私は何も言うことができなかった。 ボンゴレ十代目にはお会いしてみたいけれど、私は自慢するに相応しい人間だとは思えない。 しかしボスが決めたと言うのなら、本当に近いうち日本へ旅立つことになりそうだ。 ……っていうか、いつまでこの状態が続くのだろう、と掴まれたままの腕を見る。 力を込めて掴まれた訳ではないから痛くはないけれど、 袖越しに伝わってくる暖かさを感じて何故だか無性に恥ずかしくなった。 先程された頬へのキスも、深い意味は無いとしても、私の頬を十分に熱くさせる。

「あの、私、失礼します!」

 再度ボスと目を合わすことが出来ず、腕を振り払うようにして離すと、駆け出したい気持ちを抑えて早足で扉を目指した。 本来ならボスに対してこんな失礼な態度はとれないけれど、今は恥ずかしさのあまりいてもたってもいられない。
 背後から聞こえる小さな笑い声に、私の頬は更に熱を帯びる。しかし、振り返ってボスに何か言える余裕などないから、 それを無視をして扉を開け部屋の外へ飛び出た。
 すると、軽い衝撃と共に目の前が真っ暗になった。 目の前には黒いネクタイがあって、微かに煙草の匂いがする。 顔を上げると、少し驚いた表情のロマーリオと目が合った。 ノックしようとした矢先に私が飛び出して来たのだから驚いても無理は無い。

「どうした、何か動きがあったのか?」
「違うの、なんでもないから!」

 事件が起きたのかと思ったのか、真剣な顔つきに変わったロマーリオに私は首を大きく振って答えた。 するとロマーリオは、私の言動と赤く染まっているであろう顔を見て、何か感付いたのか口元に弧を描く。 そして、部屋の中で未だに笑い声をあげているボスを見た。

「ボス、仕事中に何やらかしたんだ?」
「俺はの日頃の行いを褒めただけだぜ」

 答えとしては間違っていないけれど、起きたことがそれだけじゃないことは説明するまでもなかった。 ロマーリオのからかいを含めた声色を聞いて、彼も説明を求めてはいないことはわかる。

「優秀な部下を持てて、俺は幸せもんだな」

 笑い声が止み、呟くような声が聞こえた。 思わず振り返ってみると、ボスは本当に幸せに満ちた表情を浮かべてこちらを見ていた。 暖かな太陽のような雰囲気が伝わってくる。
 幸せなのは私も同じだっていうことを、ボスは気付いてくれているだろうか。 ボスの暖かさに包まれる度に、言葉では言い表せないほどの至福を感じているということも。
 不意に涙が溢れ出そうになって、私はボスにもう一度小さく頭を下げると逃げるようにして部屋から離れた。

僕の命と引き換えに / 2007.10.26
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