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薄い灰色の絨毯から水がぽたぽたと落ちる。閉めた窓の向こう側から静かな雨の音が聞こえる。
地面には小さな水溜りをいくつか作って、そこにまた上から水滴が落ちて水溜りを揺らした。
雨の日特有のじめっとした空気が少し鬱陶しく感じたけれど、気温が高くないだけマシだと思った。 席替えをしてから一週間が経ったけれど、この席になってからなんだか気持ちが落ち着かない。 常に背中に視線を感じる…のは自意識過剰かもしれない。きっと見られているわけじゃないんだろうけれど、 私は後ろに彼が居るということだけで何故か緊張してしまう。 今までは誰が後ろに居ようが特に気になるということは無かった。そもそも隣の席じゃなくて後ろの席の人が 気になるなんて滅多に無いことなのに、なんでこんなに意識してしまうのだろう。男子だから?うん、きっとそうだ。 普段あまり…というか殆ど男子とは会話しないのに、挨拶を交わして会話をして、今までに無いことが起きたから それで意識してしまっているんだ。他に特別なことは何も無いわけだし。 * 「昨日出てなかったから」 それは知ってる。でもなんで私なの?疑問を抱きながら差し出した社会のノートは今、 横山君の机の上に広げられている。そして彼は一字一句間違えないように自分のノートと 私のノートを交互に見ながら内容を写している。ノートはいつも綺麗に書くようにしているけれど、 いま彼の机の上にある自分のノートを見てみれば、急いで書いたであろう部分は文字が崩れていた。 こんなことになるのなら、もっと丁寧に書いておけば良かったと後悔した。 そして、いくら彼の友達がみんな見せてくれないからといって私に頼んだのは間違いだったと、 横山君が今頃後悔しているのではないかと思った。きっと、そう思っているに違いない。 「字…汚くてごめんね」 「どこが?綺麗じゃん」 お世辞だ。横山君がお世辞を言う人かどうかは知らないけどこれは絶対お世辞だと思った。 私もっと綺麗にノートを書く人知ってる。色ペンを適度に使って、下線は定規使って書いて、 周りの女の子たちの方がずっと綺麗で見やすい。たかがノート一冊で私の気分は滅入り気味だった。 横山君にノートを見せることが嫌なんじゃない。自分の字の汚さが嫌なのだ。 そんな私の気持ちを知らない横山君は黙々と写す作業を進めている。 消しゴムを使うことなく正確に書き写して、手の動きが止まったかと思えばペンを机の上に置いて 広げていた2冊のノートを閉じた。そして私の名前が書いてある方をお礼を言いながら私に差し出した。 「また休んだ時も頼んでいい?」 自分のノートを受け取って机の中にしまおうと思った時に言われたその一言に私の動きは止まった。 まだ先程の疑問の答えが自分の中でわかっていないのに、そんなことを言われては頭の中が混乱してくる。 断る理由が無い。字が汚いというのは既に彼にとって断る理由に入らないことになっている。 貸す相手の態度が悪かったらもう貸したくないと思うけれど、横山君はそうじゃなかった。お礼も言ってくれた。 私ので良ければ、と返事をしてノートを机にしまった。半分なげやりだったかもしれない。 * 6時間あった長い授業を終えてやっと放課後になった。 雨は止め処もなく降り続ける。雲の色は朝よりも暗くなって、量も増えたような気がする。 図書室の窓から眺める校庭は、土が雨で濡れて色が濃くなって大きな水溜りもたくさん出来ていた。 もちろんこんな天気で外で部活を行うはずは無く校庭は無人だ。 常に置きっ放しのサッカーゴールと、誰かが片付け忘れたカラーコーンだけが寂しげに雨に打たれている。 窓を少し開けて雨の様子を調べるために右手を窓の外に出してみた。 少しひんやりとする風を感じて、雨はそれほど強くは降っていなかった。優しく、ぽつぽつと私の手のひらに落ちてくる。 このまま弱くなって止んでくれるのか、それとも強くなって土砂降りのようになるのか、どっちになってもおかしくない天気だ。 万が一、土砂降りになったとしても家はそんなに遠くではないし、傘もあるから特に心配することはなかった。 窓を閉めて椅子の上に置いておいた鞄を持って図書室を出た。戸締りもして、借りた鍵を職員室へ返して昇降口へと向かった。 いつもはもっと話し声が聞こえたり、誰かが廊下を走る音が聞こえたりするはずなのに、雨の日だけは不気味な程に静まり返っていた。 誰も居ない昇降口へと辿り着き、上履きを脱いで靴を履き替えた。 靴は開けたままの昇降口のドアから流れこんでくる冷たい空気で冷えてしまっていた。 そして傘立ての前へ行き、何本も置いてある傘の中から自分が使っている傘を捜すのは結構めんどうだった。 特徴のある傘なら捜しやすけど、私が使っているのは透明のビニール傘だ。 目の前の傘立ての中には透明のビニール傘が五本程ある。 これでは目印が無いと全てが同じに見えて誰のものだかわからなくなってしまうから、私は取っ手の部分にきらきら光る星のシールを貼っておいた。 その星を探して傘立てを端から端まで見渡した。だけど星は見つからない。 もう一度、透明のビニール傘を見落とさないように、ひとつずつゆっくりと探して見た。 それでも星は見つからない。三度目も同じだった。 無くなっているとわかった時、私の全身の温度が冷たかった足元と同じ温度に設定されたかのように一気に下がった。 確かに覚えている。学校に来る時に私は傘をさして来たはずだ。 家を出る前も星のシールのついた傘を手に取ったし、ここ以外に傘を置く場所は無い。 誰かが取り違えて持って行ってしまったんだ。急いでたのか、よく確認もせずに。 他の人の傘なら無くなっても良いというわけではないけど、何でよりによって私の傘が無くなってしまうんだろう。 怒るよりも悲しくなって、今日はほんとに最悪な日だと思った。 「さん…?」 急に呼ばれて振り向いてみれば、私の真後ろに横山君が立っていた。 私が傘立ての前で立ち止まっているものだから、自分の傘を取るに取れない状態だったらしくて少し困っているように見えた。 慌てて傘立てから離れたけど、横山君は傘を取らずにその場を離れた私を少し不思議そうにして見ている。 だから私は何か言わないといけないのかと思って、でも何を言えばいいのか分からなくて焦ってしまった。 「こ、こんな時間まで残ってるなんて珍しいね…!」 普段の横山君を知らないくせによくこんなセリフが言えたね、と誰かにつっこまれそうだった。 けれど横山君は表情を変えることなく、一度だけ縦に頷いて返事をした。 そして視線をやっと傘立ての方へと変えると、彼も私と同じように自分の傘を探すため端から端まで傘立てを見渡した。 私は昇降口のドアの向こうに見える水溜りを見て、雨の降り方に変化がないか調べた。 まだそんなに時間が経ってないからか、図書室から調べた時とほとんど変わってなかった。 出来ることならこのまま一時的に止んでくれないかな。 「傘、持ってないの?」 また横山君に話しかけられて私の視線もまた彼へと戻った。 やっぱり傘も持たずに空を見上げてれば誰でも傘を持っていないってばればれか。 私もさっきの横山君を真似て一度だけ縦に頷いて返事をした。 そして私は今あることに気が付いた。瞬きを数回したあとに再度確認してみたけれど間違いないと確信して驚いた。 横山君も傘を持っていなかったのだ。 「もしかして…横山君も?」 「そう。傘が勝手に消えた」 うん、私のも勝手に消えたのよ。ご主人を置いて消えるなんて最低な傘よねー。なんて、笑って話している場合でもない。 そもそも勝手に傘が消えるなんてありえない。うちの学校は魔法学校じゃないわけだし。 「さんの傘ってどんなの?」 「透明のビニール傘…」 「マジ?俺のも透明」 もう一回確認してみようと、横山君は傘立てに置いてあるビニール傘を全部取って調べ始めた。 一本ずつ私も一緒に確認したけれど、自分の使っている傘が見つかることは無かった。残っていた傘はどれも 名前や目印等が無くて、私の星のシールがはがれた跡が無いかも確認してみたけれど該当するものは無かった。 横山君も自分のが見つからなかったらしくて、結局出した傘は全て傘立てへと戻すことした。 「横山君のは何か傘に目印とか付けてたの?」 「確か名前書いてたはず」 「そっか…」 「俺よく傘失くすから、また親に怒られそう」 「今日のことは横山君が悪いんじゃないんだし…大丈夫だよ、きっと」 傘が無くても帰れることは帰れる。全身びしょ濡れになる覚悟があればの話だけど。私は出来れば濡れたくなかった。 だからといって雨が止むまでここで待っててもどうしようもない。夜まで止まなかったり、今より酷くなったら大変だ。 遠くの空まで灰色の雲の絨毯は広がってるから、土砂降りになるかは分からないけど夜までは降り続きそうだ。 私の隣で黙って空を見上げてる横山君も、雨が止みそうにないことに気づいているはずだ。 もし私達の傘が、取り違えて使われてしまったのではなくて盗まれていたとしたら、ここに残っている ビニール傘を勝手に使うわけにもいかなくなる。勝手に使えば今度は私達が泥棒になるのだから。 だからといって、全校生徒が下校した後に余った傘を借りて帰るのも抵抗がある。 まだ校内で部活や委員会をしている生徒が大勢残っているのだから何時間も待たなくてはならないし、 みんなが下校した後に傘が余らなかったら大変だ。 「さんはどうすんの?」 「どうしよう…、横山君は?」 「考え中」 そう言った横山君の目はまだ上にある空を見つめていた。 私も倣って同じ方向を見上げ、何か良い方法がないか考えたけれどすぐに答えは出てこなかった。 時間だけが過ぎていって、結局雨も止まないままだ。このままずっと永久に降り続けるかのように。 やっぱり諦めて濡れて帰るしかないのかもしれない。 私の口から出たのは考えの答えではなくて、小さな溜め息だった。 「そうだ」 「ソーダ?」 不意に言われたその一言が、私は横山君が考えていたことの答えなのかと思って、 何で答えがその言葉なのか理解できなくて思わず聞き返してしまった。よく考えてみれば”ソーダ”なわけない。 すると横山君は視線を空から私へと変えて、もう一度私に言った。 「待ってて」 「え…ここで?」 「うん」 何をしに行くのか告げないまま、横山君は靴を上履きへと履き替えて校舎の奥へ行ってしまった。 教室に何か忘れ物でもしたのだろうか。でもそれならわざわざ私に言わなくても勝手に取りに行くだろうし。 帰るに帰れない状態だし、横山君に言われるがまま私は下駄箱に寄りかかりながら戻ってくるのを待つことにした。 雨に変化は無いかと、ずっと外を見ていたら遠くの方から足音が聞こえて、その音は徐々に大きくなり、ここへ近づいて来てるのだとわかった。 寄りかかるのを止めて音のする方に視線を変えると、やはりそこには横山君の姿があった。 右手に二本の傘を持っている。見間違いだと思ったけれど、近づいてくるにつれてはっきりと見えるそれは確かに二本あった。 なんで、どうして、どうやって。同時に三つの言葉が頭に浮かんで私は何も言えなかった。 「はい」 横山君はいつもの表情で一本を私に手渡すと靴をまた履き替えて、広がらないように留めてあった傘のボタンを取った。 そして傘を広げてそのまま昇降口から帰ろうとしてる横山君を見て、私は慌てて呼び止めた。 「よ、横山君!」 「何?」 「この傘どうしたの?借りていいの…?」 「用務員のおじさんから貰った。持ち主不明だから大丈夫」 ついでに返す必要もないから、と横山君は淡々と言った。 もう濡れて帰るしかないのだと思っていたら傘を貰えるし、横山君が私の分まで貰ってきてくれるなんて 思ってもいなかったから私は驚いてすぐに反応出来なかった。 横山君ってもっと無口で近寄りがたい感じだったのに、こんな予想外な行動をされたら頭の中がごっちゃになってしまう。 私が少し頭を下げてお礼を言うと、横山君は大袈裟だと少し笑った。 ほんの少しの出来事だったけれど、私はこのやりとりが嬉しく思えた。 小さく手を振ってさよならをして、 このとき私は彼のことを意識してる理由が何なのか初めて気づいた。 |
雨雫 2004.10.21 | 表紙 / 薄暑 → |