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時計の秒針が動く時の小さな音が今はとても大きく聞こえた。
テーブルを挟んで向かい側に座って夕食を食べているお母さんは、時計の音など気にもせず、黙々と口にご飯を運んでいる。
静かに食事をすることは食事のマナーとしてあることだけれど、普段の食事の時はある程度の会話をしていたからここまで静かになることはなかった。
ただの静かな食事ならまだ良い。だけど今は空気が重い。でも、空気を重くした原因は私にあった。
先月末に行われた一学期の期末テストの結果が今日戻ってきた。 薄々そんな感じはしていたけれど、やっぱり中間テストの時よりも成績が悪くなっていた。 今、私は中学三年生。いわゆる"受験生"であり、今は"大事な時期"なのである。 もちろん、テスト前日にはきっちり勉強した。でも横山君のことでどこか気が浮いてしまっていて、勉強に集中できず散々な結果になってしまった。 当然、部屋の中で私が真面目に勉強しているのだと思っていたお母さんにとって、この結果を現実として受け止めることが出来なかったのだ。 私が今お母さんの立場だったとしたら、がっかりしてるに違いない。 「、北高に行きたいんでしょう」 お母さんがお箸をお茶碗にのせながら言った。 私が考え事をしながら食べているうちに、お母さんのお茶碗の中は既に空っぽになってしまっていた。 お母さんのその声はとても落ち着いていて、怒っているようには感じられなかった。私は少し安心した。 北高は最寄の駅から三駅行った場所にある学校で、家から近くて制服が可愛いという簡単な理由だけで第一志望にしている。 そんな簡単な理由でも、自分の行きたいところを受けて良い、と言って両親は応援してくれている。 でもその学校はレベルが少し高めで、今お母さんが言いたそうな顔をしているけれど、もう少し頑張らないと合格は遠い状態なのだ。 「入試までもう一年ないのよ」 「…そんなことわかってるよ」 心配してくれているのは分かってる。 分かっているのだけれど、その言葉に少しムカムカしてきて強く返事をしてしまった。 そして自分の使っていた食器を台所の流しに下げて、お母さんの後ろを通って足早にダイニングを出た。 お母さんに悪気はないのに強く言ってしまったことを少し後悔した。 今勉強しないで困るのは自分だ。 違う学校にすることも出来るけど、私が行きたい学校に行けるように応援してくれているのに、あんな態度をとるなんて最低だ…後で下に降りたら謝ろう。 部屋の電気をつけて、参考書やノートが開いて置いたままの机に向かう。 そして十分ほど勉強したものの、集中はすぐ途切れてしまった。 シャープペンを置き、椅子から降りてベッドへ寝転がる。 最近はいつもこうだ。横山君に彼女が居るということを友達から聞いたあの日からずっとこんな感じだ。 もう諦めてしまおうと何度も思ったけれど、そう思えば思うほど胸が苦しくて息が詰まる。 不意に目が合ってしまった時とか、ノートを貸す時に軽く触れた指先とか、思い出しただけでドキドキして顔が熱くなる。 こんなに人を好きになるなんて初めてだから、どうして良いのかわからない。 想いを伝えることが出来たら、どんなに気持ちが楽になるだろうか。 だけど今の私にはそんなことをする勇気はない。 告白のことを考えると心は一気に不安でいっぱいになる。 きっと答えは断られるに決まってる。 だってあんなに可愛い子が彼女だなんて…。 はぁ、もう考えるのはよそう。勉強しなきゃ。 心と頭にもやもやが残ったまま、再び机に向かった。 * 「えー、夏休みだからと言って、気を緩め過ぎずに、規則正しい生活をするように」 息苦しく感じるほどに蒸し暑いのに、体育館のステージでは校長先生がかれこれ十五分くらい喋っている。 夏休み前の校長先生の話を聞くのはこれで三度目だけれど、三回とも同じような内容しか喋っていない気がするのは気のせいだろうか。 立ったままで話を聞かなければならないというのは、生き地獄と変わりなくて、隣のクラスの女の子が 気分が悪くなってしまって保健室に運ばれた。 もう限界だと誰もが思った時、校長先生の話は終わった。あと三分でも続いてたら私も保健室行きになっていたに違いない。 教室に戻って一学期最後のHRは、担任がプリントを配布して手短に休み中の注意事項を話しただけで、あっさりと終わってしまった。 生徒達に話すべきことは先ほど校長先生がくどいほど喋ってしまったから、話すことが無かったのかもしれない。 「教科書って持って帰った方が良いの?」 不意に後ろからした声に私の心臓は大きく飛び跳ねた。 後ろを振り向けば横山君が机の上に今日は必要ないはずの教科書たちを重ねてウンザリしたような顔をしていた。 この蒸し暑さの中で重たい鞄を持って帰るのは誰だって嫌がる。例えそれが自業自得だとしても。 「わかんない…けど、休み中に教科書使ったりしない?宿題とかで…」 「宿題か…、教科書使いそうなのって何?」 私は鞄の中からクリアファイルを取り出して、休み中の宿題について書いてあるプリントを見た。 そして教科書を使いそうな教科は数学と理科と英語だということを教えると、横山君は教科書の山から三冊を取り出して鞄に入れた。 それから、残った教科書の山たちを再び机の中へ戻した。 鞄が重くならなくなったことで、横山君の表情は少し和らいだように見えた。 それを見て、なぜか私の気持ちも少し楽になる。 「これから練習?」 横山君は、こくんと一度頷いて、鞄のファスナーを閉めながら席を立った。 そしていつものように、じゃぁ、と言ってドアの方へ歩いていった。 普段ならまったくなんとも思わない些細な挨拶も、横山君がしてくれたというだけですっごく特別なものになる。 別れの挨拶だって嬉しいものへと変わってゆく。 「、一緒に帰ろ!」 「うん、ちょっと待って」 横山君が教室を出て行った頃、鞄を持った友人がやって来た。 既に支度を終えた友人は席の横に立ち、私が荷物をまとめるのを待った。 私は急いで机の上に残っているペンケースやプリントを鞄に入れて、机の中に忘れ物が残っていないか確認した。 「横山君と仲良いんだね」 「誰が?」 「が」 「私!?なんで?」 「よく喋ってるじゃん。ノートも見せてあげてるし」 「そ、それは席が近いからだよ。他の人がここに座ってても同じことすると思うよ」 「そうかなぁ」 「そう!っということで支度終わったから帰ろ」 鞄のファスナーを閉めながら席を立つと、友人はまだ何か言いたそうな顔をしていたものの、 蒸し暑い教室を早く出たくなったのか、自宅から持ってきた小さくて可愛い団扇を扇ぎながら教室を出た。 廊下に出ても教室との温度差は無いに等しい。全開にした窓からは風が全く入ってこない。 友人の団扇を扇ぐ右手にも力が入る。私も団扇を持ってくれば良かったなぁ。 横山君はこんなに暑い日でも外でサッカーするんだ。熱中症になったりしなければ良いけど…心配だな。 「あ、そうだ。進路指導室寄ってって良い?資料持って帰りたいんだ」 いいよと返事をして、下へ降りる階段を通り過ぎて廊下の突き当たりにある進路指導室へと向かった。 進路指導室は鍵が開いていたものの、中に他の生徒の姿は無く、窓も開けっ放しの状態だった。 友人が自分の志望校の資料を探している間、私は窓際に置いてあった椅子に座って待った。 って、明日から始まる夏休みが中学校生活最後の夏休みなんだ…全然そんな感じしない。 去年の夏休みは、受験のことなんて頭の片隅にあって、勉強も宿題以外ですることもなくて遊んでばかりいた。 家族で田舎のおばあちゃんの家に遊びに行ったりもしたっけ…今年も遊びに行きたかったな。 受験勉強がこんなに大変だったとは。なんとかなる、なんて思ってた自分がバカみたいだ。 …考えてみれば、去年の夏休みは横山君の「よ」の字も頭の中に無かったんだな。 今になってこんなに横山君のことばかり考えるなんて思ってもいなかった。 なんでもっと早く知り合うことが出来なかったんだろう。いったい何してたんだ、私。 「えー、なんで資料ないの?この前見たときはここにあったのに」 「他の人が持って帰っちゃったんじゃない?」 「まじで?もー暑いから早く帰りたいのに…職員室行ってくる」 友人はそう言うと鞄を置いて、団扇だけ持って職員室へと向かって行った。 上履きが急ぎ足で廊下を踏む音を聞いて、本当に暑いのが嫌でイライラしてるなぁと思った。 私も暑いのは嫌だけど、ほぼ毎日、何時間も蒸し暑い教室に居て慣れてしまった。 その分、寒さには弱かった。暑いのと寒いのだったら暑いほうが好きかもしれない。 家に帰ればクーラーと、お気に入りのアイスが待ってる。そう思うと暑さも我慢できる。 窓の外を眺めながらぼうっとしていると、突然目の前からふわぁっと風が吹いて頬を撫でた。 涼しいと思った束の間、後ろからパサパサッと音がして、振り向いてみれば教卓の上に置いてあったプリントがバラバラになって、 風任せに飛んだり転がったりしていた。 三十枚ほどあったプリントの半分は室内へ散らばっている。 私は立ち上がって、残りのプリントがまた飛ばされないように、側に置いてあった鉛筆削りを上に載せた。 それから近くに落ちているプリントから拾い集めた。 並べてある机の下にあったり、教室の後ろの方まで飛んでいったりしていて、拾うのが面倒くさいと思った。 さっきまで無風だったのに、風はまた吹いて、散らばったままのプリントは私から逃げるように遠ざかる。 風は私が嫌いなんだろうか。違う、プリントが私を嫌いなんだ。 「はい、これ」 しゃがんでプリントを拾っている最中、近くからした声に顔を上げると女の子が居て、差し出す手には集めているプリントが握られていた。 この子の顔、どこかで見たことがある。うちのクラスの子じゃなくって………あ! 「雅…さん」 思わず名前を口に出してしまって、私は慌てて謝った。 向こうにしてみれば、名前も知らない人物から突然下の名前で呼ばれたら吃驚して、それから気味悪がるに違いない。 だけど雅さんは少し驚いた顔をしただけで、すぐ微笑んで"さん"なんて付けなくて良いよと言った。 その表情や声、雰囲気まで優しくて、私は同性でありながら心がどきりとした。 ぼうっとしたままの私を置いて、雅さんは教室の後ろの方に散らばっていたプリントを拾い集めてくれた。 それから周りをよく確認して落ちてないことを確認すると、また私のところへ来てプリントを差し出した。 「これで全部かな。大丈夫?」 「は、はい、大丈夫です…ありがとうございます」 「なんで敬語なの?三年生だよね?」 「はい!一組のです」 返事をして答えた私を見て、雅さんはくすりと笑った。 その笑顔も素敵だと思った。とても作り笑いには見えないから、私は少し恥ずかしくなった。 それから雅さんは、敬語はやめよう、と言った。私は頷いたものの、すぐにやめれそうには無かった。 だって好きな人の彼女なんだもの。なんだか恐縮してしまう。 「ちゃんって呼んでもいい?私のことは呼び捨てでいいよ」 「うん。じゃぁ…私も雅ちゃんって呼んでいいですか?」 「もちろん。ってまた敬語だね」 「う…」 縮こまる私にまた雅ちゃんは小さく笑って、よろしくね、と言った。 私は恥ずかしくて、頷いて返事をした。もともと人見知りをする方だから、初めて会話をする人と出会ったときは 相手の目が見られないほど緊張してしまう。 逆に、雅ちゃんは緊張する様子も無く笑顔まで見せてしまうのだからすごいと思った。 「山田先生探してるんだけど、ここに来なかった?」 「ううん、来てないよ」 山田先生とは進路指導の先生で、仕事が多いせいなのか、 普段から校内のいろんな場所へ動き回っていて捕まえるのが大変で有名な先生だ。 他の先生たちも探すのが面倒になってきていて、用事がある時は校内放送で呼び出していた。 雅ちゃんも、だいぶ校内を探し回っている様子だった。困った様子で小さくため息を吐いたのが聞こえたから。 「そっか、ありがとう。じゃぁ私行くね」 「うん、ばいばい」 「ばいばい」 雅ちゃんが出て行ったのを見届けた後、肩に入っていた力が一気に抜けた。 優しくて、可愛くて、素直で、男女問わず人気があるのも納得できるし、横山君の彼女なのも納得できる。 まるでマンガに出てくるような感じの素敵な女の子に、平凡などこにでも居るような私なんかが敵うわけがない。 私がもし男だったら、間違いなく雅ちゃんに惚れているだろう。それくらい雅ちゃんは魅力的な人だった。 あぁ、この先どうしよう。 好きな人の彼女と、友達になってしまうなんて。 |
炎天 2005.08.07 | 表紙 / 残暑 → |